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【ネタバレ含】ダンサーインザダークという完璧な地獄

ダンサーインザダーク。それは完璧な地獄。

一度見たら4日は寝込むとか、気分が落ち込むとか後味悪いだの胸糞、鬱、バッドエンド、二度と見たくないなどと言われたい放題の紛うことなき傑作ですが、ぼくにとってそのラストがあまりにも美しすぎたので、感動のあまり手当たり次第友人に、もはや当たり散らかすといった表現が合うほどの乱雑な感想を深夜2時近くに送りつけたりするなどしました。

どうしてそこまで取り乱すほどの興奮をこの映画は与えたのか。それはダンサーインザダークの完璧な地獄にあります。

この記事はしれっとダンサーインザダークのネタバレが含まれています

巷ではそんな評価ばかりの中、どうしてぼくがここまでダンサーインザダークを絶賛してしまうのか、どんな物語なのかを完全に勢いに任せて書き散らすのが本作です。特に誰かに読んでもらおうというよりも、自分の中で抑えきれないこの衝動をぶつけたのがこのnoteなので読みにくい箇所わかりにくい表現多々あるかと思いますがどうぞお付き合いくださいませ。

映画という作品として

ダンサーインザダークを見た人向けにこの記事を書いているのであらすじは割愛。それでは映画そのものをみた感想をつらつら書いていこうと思います。

まずこの作品は2000年に公開された映画にも関わらず画質が荒く、また世界背景的にも1930年代くらいの雰囲気があります。

8mmカメラで撮影されたようなノイズの目立つ画質はかえって30年代を映し出すのにはとても効果的でした。しかしそれよりもぼくがとても感動したのはその構図です。

やけに人物の顔に近い構図、時間軸がわかりにくいカット、やけに暗いのカラーグレーディング。モチーフだけでない映画の撮影的暗さ、その不安を掻き立てるような構成、なーんだ安っぽいホラー映画と大差ないじゃないか。

そんなこと思っちゃってた自分をポカしてやりたいっ!

場面は変わり、セルマのミュージカルのシーン。

人物の全身はおろか、誰がどこで踊っているのかわかるくらいに広く構図を取られています。さらには色彩も豊かになり、セルマの服の色がここで初めてわかるほど、手ブレのないきちんとした撮影。

そうです。セルマの現実の見え方とミュージカルの空想とでは”見え方”にここまでの差があることを撮影を通して表現していたのです。

その落差たるや筆舌し難いグロテスクを孕んでいます。このむごさこそが、セルマという女性の純粋さと対比になってより物語を引き立てているのだと思います。

セルマという女性を見て

さあ。ここから長いですよ。よろしくどうぞ。

まずはダンサーインザダークという地獄についてメモがあったのでそれをコピペ。この時のぼくの熱量をそのままに特に推敲することもなく貼り付けることが果たして考察と呼べるのかはさておき、ぼくの情緒がここまで掻き乱されたというわかりやすい証拠というかダイイングメッセージ的なものが残っていたのでご紹介します。


完璧な地獄

ダンサーインザダークが鬱映画だと言われる所以はそのストーリー展開にあります。

主人公セルマの救いのなさ、不幸が不幸を呼び、何もかもが裏目に出て最後には音を立てて壊れる様を、たった2時間の間に詰め込めば精神衛生上大変に悪影響を及ぼします。

ただしかし、商業用のマーケティングに敗北した映画のハッピーエンドには反吐が出るタチなのでこの鬱展開というのはつまり、ある種のリアルさの裏返しでもあると思うのです。

大抵の場合「映画のような出来事」という慣用句は現実では起こり得ないような奇跡に近い何かを指したりしますが、ぼくたちが生きる世界は決してそんな奇跡のようなこととか、運命的な、曲がり角で食パンを加えた女子高校生とぶつかってしまうようなことというのは起こり得ないのです。

まあそんななので「映画の中でくらい夢見させてくれたっていいじゃない」なんて言われてしまったらもう何も言い返す言葉もございません。完全に価値観の違いです。ぼくは朝にパンを食べます。きのこの山が好きです。

というわけで、この鬱展開というのはリアルさを持ってして展開されるもので、そこには反論のしようのない周到な設定が散りばめられているわけで。ぼくはその脚本の緻密さにとてもグッとくるのです。

例えば最後の尋問の時。セルマが良かれと思ってしていたことが全て裏目に出ているのはそれは決してアンラッキーなんてものじゃなく、伏線回収というようなチャチなものでもない、ただただセルマの選択(その大半は良かれと思ってやっていること)によって首を絞めていくのは計算されたストーリーがあってこそ。

一歩一歩着実に地獄へと歩んでいくのを感じることができます。そのような丁寧に作られた展開をただ胸糞だとか鬱だとか安直な言葉で括りたくないのです。



ぼくがこのnoteで言いたいことは大体のところこれです。

美しすぎる地獄、盲目のニルバーナ。希望を見ることと、現実を生きることは全く持って異なり、それは水と油というよりも海と空のような関係で、しっかりとした境があるわけではないけれど、間違いなく違うと言えるそういう関係。

生きるということがもし海だとしたら、希望を見ることは空なのだと思います。現実はどこまでも深く、暗く、そしてあまりにも冷たいけれど、対して空はどこまでも続き、目も開けられないくらいに眩しいものです。

闇の踊り子

ダンサーインザダーク

まず何よりもこの映画で一番よかったところはセルマというキャラクターがあまりにも完成されていたことです。完璧ではないけれど、それがかえってリアルさを醸し出している非の打ちどころのない人物像にぼくはどこまでも痺れてしまいました。

セルマというひと

この物語はひとりの女性を中心として展開していきます。

彼女の名はセルマ。ひとり息子を持つ母親です。父親は登場しません。ひとりで息子のジーンを片田舎の借家で細々と暮らしています。

そして彼女はある秘密を抱えていました。それは遺伝性失明を患っていることでした。先天的に失明を運命づけられた彼女はそれを知りながらもジーンを出産し、彼もまた先天性の失明を抱えて生まれてくるのでした。

セルマはジーンの失明をなんとかしようと工場でもらえる少ない給料の中から少しずつ息子の医療費を貯めていきます。

はいここ。なんですか遺伝性の失明って。そしてなんでそれを知っておきながら子供を産んだんですか。もうこのあたりから鬱映画だと言われる所以がプンプンしてきます。

エゴの塊のようなセルマですが、ここセルマの境遇を考えるとそうとも言い切れない気もしてきます。

セルマは生まれながらにして失明する運命を背負った女性。その病は13歳というタイムリミットがあるらしく、そこで治療をしなければ治ることがないそうな。

セルマは現在進行形で失明が進んでいることから治療を受けさせてもらえなかったのでしょう。13歳というとセルマの出身地チェコでも義務教育にあたる期間です。思春期の女の子が一体どのような生活を強いられるのか想像に難くありません。

おそらくずっと見えない世界で生きていたのでしょう。ぼんやりと輪郭の定まらない、溺れてしまったような現実でセルマは「みんなと同じ普通」を望んだに違いありません。

なぜなら”見えない”とは主観になるので相手からしてみればどれくらい見えていないかなんてわかるはずもないからです。

おそらく日に日に視界がぼやけていく現実でセルマはどれだけ絶望したのか。普通のことができなくなっていく恐怖を味わいながらそれでも普通であろうとした。

しかしなれなかった。

目が見えないからです。勉学をとってもいくら勉強する熱意があっても文字が読めなければ学ぶことはできません。劇中でもセルマは舞台の歌を常に口ずさむようにして忘れないようにしています。一度忘れてしまうともう読むことは叶わず、誰かに教えてもらうしかありません。

しかしそうしない、人に甘えられない性格のセルマは自分の障害を言い訳にせず普通の生活をしたいという強い思いから毎日毎日忘れてしまわないように歌を口ずさみます。

失った光と日常

巷ではセルマは“知的障害”なんて話もあるみたいですが、ぼくは違うと思います。きっと盲目であること以外は普通の女の子なんだと思います。

ぼくたちの生活の80%近くが目からの情報だなんて言われます。しかしセルマはそれを持っていません。ぼくたちと同じ生活をしていても彼女には2割しか届かないのです。そんな生活を何年と続けていくと歴然とその差が生まれてきます。

知的に障害を抱えているのではなく、目が見えないからこそ得られない情報が多すぎてぼくたちが”当たり前”だと感じていることも彼女にとっては知らないことばかりなのでしょう。

ぼくらは生活をしていく中でゆっくりと失われていったもの、世の中のしがらみの中で生き抜く術、本当ではないけれど嘘でもないこと。

そういう境界線の曖昧なものを微妙にコントロールしながら生きることをぼくは社会性の生活であると考えているのですが、セルマはそれを知りません。

なぜならぼくたちのように多くの人とコミュニケーションをする機会も彼女には与えられず、多くの人が享受する普通の生活というものをセルマは失明という運命によって遠ざけられてきたからです。

約束を守り抜くこと。ぼくたちはそのような本質的に大切なことを「時と場合による」という多くのパターンを目の当たりにしてきて、いつしか約束は”守るように努めるもの”という風になりました。

何がなんでも守り抜く。たとえ自分が犠牲になろうとも。わざわざ自分が傷ついてしまうような状況の中で、そして第三者から見て守る必要もなさそうな約束について。頑なに口を割らないのはセルマなりの当たり前で、彼女なりの誠意で、ひとりの女性として生きてきた証だと思うのです。

感情の昂りを歌にのせて

セルマは感情が昂ると現実逃避として大好きなミュージカルの妄想をします。

それはふと聞こえる環境の音。工場の機械が動く音、何かがプレスされている音、足音、人々の服が擦れる音、素材が加工されていく音。どんな音もそれはミュージックになります。

セルマにとってはどんな騒音でも最高の演奏になり、どんな人でも最高のダンサーになります。そして中心にいるのはセルマ。彼女はミュージカルの主演なのです。

人々に囲まれた中で堂々と歌う様はなんと美しいことか。今まで盲目という暗がりの世界で生きていた人間にとって舞台という場ほど色彩にあふれた場所はないのでしょう。

見えない世界、空想の色彩で塗り潰そうとするのです。

彼女にとって見えない現実よりも極彩色のミュージカルの方がよっぽどリアルで生きている実感を得ることができるです。

母としての贖罪

セルマは遺伝性の失明を患っておきながらどうして子を産んだのか。

ラストに描かれる名シーンですが、ここにセルマの全てが詰まっています。

「ただこの腕に赤ちゃんを抱いてみたかったの」

生まれながらに背負った失明という運命。努力しても届かない普通の生活、セルマという人間は果たして何のために生まれたのか、暗がりの世界で何を生きがいにしていけば良いのでしょう。

そんな彼女が唯一叶えられる普通のことが”出産”でした。何の変哲もない、ただの出産、赤ちゃんを抱くということ。普通の幸せ、普通の生活。

人生の中で唯一のワガママだったのでしょう。自分が生きた痕跡が欲しいと願うのは人間の常です。そして当の本人もこの遺伝性の失明が息子に罹ってしまうこともわかっています。だからこそ、息子にはせめてもの贖罪として13歳までに治療を受けさせてやりたいのです。

セルマがただ「赤ちゃんを抱きたい」という理由で産んだわけではないのは劇中で嫌というほど見ることができます。

いつもヘラヘラ、ニコニコとして朗らかな印象を受けるセルマですが、息子の前では毅然とした態度で「甘えさせたくない」と躾けます。

「甘えさせたくない」すなわち同じ失明の運命を背負っているもの同士、その言葉の重みは計り知れません。日に日に見えなくなっていく世界の中でどれだけ自分の力で生き抜くことができるかが彼女たちには重要なのです。

おそらく目の病気のせいでこれまでも多くの苦労をしてきたのでしょう。差別や偏見も受けてきたのでしょう。目が見えないことをいいことに、もしかすると父親がいない理由もそれに関わってくるのかもしれません。

社会を生き抜く上で目が見えないというのは修羅の道です。ぼくたちがどれだけ想像を巡らせても到底辿り着けない境地に彼女たちは生きています。そんな生活は失明の度合いが増していくほどに色濃く、重くのしかかっていくのです。

息子の話になるとしっかり真っ直ぐな目を向けるセルマの表情から今までの人生で同じ思いをさせたくない、という強い意志を感じることができます。

音のない世界

セルマのただひとつの楽しみ。それはミュージカルです。

華やかな衣装、華麗なタップ、美麗なダンスに透き通る歌。例え目が見えないとしても音楽は彼女の心を救います。

目が見えないので人一倍耳が敏感なのでしょう。見えない環境音からミュージカルを想像して現実を拡張するのは彼女なりのコミュニケーションなのかもしれません。

そんな中で独房に閉じ込められたシーンがありました。

あーやばい。書いてて泣けてきた。凄惨すぎてもう画面を見るのも辛かったです。音を頼りに見えない現実をミュージカルに昇華して何とか理解しようというセルマから音を奪い去ったらどうなるのか。

歌うそばから音は壁に吸い込まれ、静寂が彼女を襲います。タップをしても床はそのパーカッションを呑み込みます。歌い続けなければ、踊り続けなければ沈黙が彼女のすぐ後ろまで来ています。

歌い続けなければ沈黙に食われてしまう、しかし私には何のバックグラウンドもない、誰も踊ってくれない、誰も見てくれない!

ただただ孤独に歌い続ける彼女には目も当てられません。

その選択は幸せだったのか?

ラストでは最終的にセルマは死を選びます。周りからは「母親としての責務を全うしろ」と説得されますが、堂々と自ら死を選びました。

107歩、絞首台までの道のりを何とかミュージカルの妄想で乗り切り、しかし実際に目の当たりにするシステマティックな死に取り乱してしまう。

そんな中でジーンの手術が成功したと、友人が息子のメガネをセルマに手渡します。それを受け取った彼女の何と朗らかな表情たるや。この気持ちを何とか表現するためにセルマは歌い始めます。

首に縄をかけられても笑顔で歌い続ける彼女、セルマは絞首台に立った時に初めて空想のミュージカルではなく現実で自分の歌を観客に届けることができた。

目が見えなくても舞台の練習を続けていたセルマ。工場の夜勤や内職を増やしても途絶えることなく練習を続けていた彼女。空想の世界ではいつも中心で踊っていたヒロイン。

そんなセルマの夢は「舞台に立つこと」。見ている人に自分の歌を届けること。そんな夢がついに絞首台にて叶うことになります。

セルマの最後を見届けるために集まった人たちを観客にして、自分は首に縄をかけられながらもどこか幸せそうに歌を歌う。

そう。普段は現実逃避として歌うことは空想の中でしかやらなかったセルマが、絞首台の上では現実で歌ったのです。

これはつまり現実逃避する必要がなかったということ、現実そのものが幸福であったから歌ったまでのこと、自分の幸せな気持ちを歌に乗せたということ。

セルマは心の底から幸せだったのでしょう。自分の命と引き換えにジーンの目が治ったことに安心したのです。

刑が執行され、頸椎の折れる音で彼女の歌は途切れます。

ラストソングを聞かなければ物語は永遠に続く。彼女の命は潰えてもセルマは母として永遠に存在し続ける。そんな覚悟が見えた音でした。

人生で一度は見るべき映画

勢いで書き上げたこのnoteも7000字近い文量になってしまいましたが、ぼくの熱量は伝わったでしょうか? それとも古傷を抉られたような気持ちになってしまった方もいらっしゃるかもしれません。

いずれにせよ心に深く残る作品であることは間違いないと思います。そんな作品ってほんと数えるくらいしかなくて、ぼくが今まで見てきた映画の中でもこの一本しか存在しないです。

なのでぼくはここにハッキリとこの作品は人生で一度は見るべき作品だと断言します。

もはや見てほしいというレベルではなく、見るべきと言っちゃうくらいには大興奮しているわけですけれども、それくらいこの作品は完成度が高いです。

カメラワーク、構図、設定、演出、そしてビョークの演技。

映画館で見なかったことを酷く後悔しているレベルでぼくはこの作品がとても心に残りました。

人生のでこれは見るべきという作品にあなたは出会ったことがありますか? ぼくはあります。間違いなく「ダンサー・イン・ザ・ダーク」です。

この完璧な地獄をあなたも一度覗いてみてはいかがですか?

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