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2年を振り返る思考。


 久しぶりにわたしの内側を、雪崩れを打つようにこの指先から繰り出している秋夜。なぜなら今日、金木犀の香りに包まれた交差点で信号待ちの最中、noteさんからのお知らせに氣づいたからです。

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 いつの間に…(笑)。そうか…もう2年経ったのか…と、驚きの氣持ちでいっぱい。2年なんてたいしたことはないのだろうけれど、それでもやはり、感慨深いことに変わりはなく。3日坊主なところもあるから、こんなに続くとは本当に思っていなかった…。


 SNSも自己表現も苦手で、自分が何かを書いて、それを公の場に発信するなんて微塵も考えていなかった、2年前の今頃。

『何でもいいから書いたほうがいい』
『書いて書いて、書きまくれ』
『書き続けなさい』


 なぜか立て続けに、幾人もの方々からかけられた言葉たち。『きっとこれは天声人語…』と思わなければ、書いていなかったかもしれない。『よくわからんけど、何やら書くことをしなければならんらしい…』と重い腰を上げて、『こんなの見てくれる人もいるかわからないのに、やる意味あるのかなあ…』とドキドキしながらはじめたことを、今でも覚えています。


 最初から決めていたことは、好きなことを好きなように書く場所にすること。他人の目を氣にしたら絶対に書けないし続かない、そしてそんなことなら、自己表現をする意味などない、と思ったから。もちろん公序良俗への配慮などはいつどこであっても必要ですが、たとえどんな題材を取り扱おうとも、どんな言葉を選ぼうとも、自分の感性に嘘をつかない場所にすると誓いました。以来、書きたいように書きたいことを書いてこれたので、自分との約束は果たせていると思っています。


 毎日note更新をはじめたのは、2019年12月頃からではなかったか…と記憶しています(お正月だったかなあ…確かではないのでごめんなさいですが)。最初は100日だけチャレンジしようと思ってはじめたのですが、やってみたら意外と書けてしまうもので、270日まで続けました。3日坊主なところもあると冒頭に記しましたが、やってみてわかったことは、好きなことなら続けられる、という至極当たり前のようでいてなかなか体感にまでは至らない、シンプルな真理でした。おっかなびっくりはじめた書くという行為を、結局のところ『好きだった』と、毎日noteを続けたことで客観的に、というよりは逆輸入的に理解させられました。


 ありがたいことに、noteでの出逢いも数知れません。


 巷では有名な話で(笑)、過去に何度も書いておりますが、このnoteを通して起こった最大の事件…ゴホッ。いえ、最高の出逢いは、hachiさんとの出逢いでした。巷では有名な話なので詳細は割愛しますが、未だに振り返ると不思議で、運命的な出逢いだったと思います。『ご縁だなー。神様ってやっぱり変化球しか投げないのよねー』と、心底思います。


 大人になってから友達をつくるのって、難しいと思っていました。でも、一足飛びに姉妹のような親友のような存在になれるご縁が実際にあって、出逢う場所、住んでいる場所も、過ごしてきた日々も関係ないのだと、彼女との出逢いがこれまたシンプルな真理を教えてくれたように思います。出逢ってから一年半ほどですが、お互いに生活が目まぐるしく変化しています。ふたりではじめた活動も少しずつ形を変えていますが、この前話したときも、『形は変わるけど、わたしたちは変わらんね』と同じことを思い、語り、いつもと変わらず笑い合えていることに、感謝しかありませんでした。


 hachiさんだけに限りませんが、noteをやっていなかったらきっと出逢えなかった方たちがたくさんいます。いつもありがとうございます。






 冒頭に書きましたが、ここでは好きなことを好きなように書いてきました。形を決めず、表現方法もさまざまに、書いてきたと思います。自分でもジャンルが何になるのか?と考えたこともありましたが、ルールや型に嵌まるのが元来、性に合わないので(笑)、序盤で考えるのをやめました。


 『ステキな詩ですね』とコメントをいただいたことで、『へえ、これって詩なんだ』と認知したことをはっきり覚えています(笑)。詩というタグすら最初はつけていませんでしたから、詩を書いている意識はまったくありませんでした。まあ確かに、考えてみたら詩以外に当てはまらないよな…とは思うのですが、書きたいように書くぞーと思いながら書いていたので、形にはまったくこだわっていなかったのです。


 上手いとか、下手とか、そういうこともどうでもよかった。自分の内側にあるものをどう表現すれば一番『わたし』たるか、それを念頭に置きながら書きまくってきたように思います。


 ふわっとした抽象的なものであってほしい詩があります。きちんと順序立てて論理的に書きたいときがあります。自分の思っていることをしっかりと伝えたいと思うときがあります。簡単に伝わってたまるかー!くらいの氣持ちで書いてしまうときもあります(笑)。人が読んだら『意味わからんだろうな…』と我に返るときもあります。文字より余白に意味を持たせすぎて行数にこだわりまくるときがあります。余白を持たせることなく文字で埋め尽くしたこともあります。





 全部、それでよかった。それがよかった。





 全部、紛れもなく、私、ワタシ、わたしでした。




 正解も不正解もなくて、ただありのまま、これでよかったんだと、自己満足かもしれないけれど、今そう思えていることが、幸せだなと思います。







 書くのが上手いかどうかは、正直わかりません。書ける人なんていくらでもいますし、好みの文体もありますし。四六時中書いていたいかというと、そんなことはありません。だって、生みの苦しみを知っているから。書かずに生きていけるかと聞かれたら、できないことはないかもしれません。書くことが心臓に繋がっているわけではありませんし(笑)。





 でも。





 ある出来事が、事象が。誰かの仕草、行動、言動が。些細な氣づきが。突然の閃きが。濁流の感情が。清らかな祈りが。自然との対話が。溢れ出る畏敬の念が。届けられた愛が。






 言の葉になって舞い上がるときがあるのです。必死に掴まえようと、もがくときがあるのです。掴めることのほうが少ない。言の葉たちは、わたしの想いをよそに、一瞬にして去来する。


 しかし何も掴めずとも、この心のずっと深く、暗い底の、ずっとずっと底で、小さく、微かに、密やかに。ずっとずっと燃え続けている何かに、僅かに残った言の葉が落ちて、触れた刹那、轟々と燃ゆるときがあるのです。








 こんなときわたしは、書かずにはいられない。








 詩でもなんでも、とにかく、その轟々と燃える衝動を、観たまま、視たまま、感じたままに、狂ったかのように、表現せずにはいられなくなるときが、あるのです。






 書くのが上手いかどうかは、正直わかりません。四六時中書いていたいかというと、そんなことはありません。書かずに生きていけるかと聞かれたら、できないことはないかもしれません。


 こんなことを書いてのけるようでは、書くということで誰の役にも立てない日が、来るかもしれません。






 


 でも、そうなったとしてもわたしは、この2年を通して確かなことを、知ってしまった。










 嗚呼、愛してしまった、と。











 片想いで終わりたくないなと思いながら、いつもこの火を小さく、微かに、密やかに燃やし続け、守りながら、永遠に陸にあがれないこの海を、泳いでいるのです。


 2年前にnoteをはじめたから出逢えたこの海は、いろんな色を見せてくれました。波も凪いだり荒れたりを繰り返し、溺れれば苦しんで浮かんでは流され、何度も嫌になりました。しかし、夜の海を照らす月明かりに宝石を見出す感性をくれた。太陽の眩しさに涙する朝も、教えてくれた。







 いろんなことを教えてくれた、愛すべき、わたしの、言葉の海。







 愛してしまったの。
 だからもう、他の海へは行けない。










 起こった出来事のすべて。
 紡がせてくれた言葉たち。
 そしてこの海をくれたnote。
 出逢ってくださった方々。
 そして向き合ってきた、わたしに。





 ありがとうございます。





 これからも、この海で、生きていきます。




hana


今日もありがとうございます♡







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