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カルマを信じるスイートでチャーミングなプリンス

週に一度は行く、ちょっと気の利いた、でも素朴で親しみやすいカフェがあります。私が住んでいるスペインの島は決して大きな街ではないので、徒歩圏内には現代的で都会的な洗練された飲食店はあまりないのですが、このカフェは、なかなか感じの良いお店なのです。

少し入り込んだ路地にあるこじんまりとした空間ですが、金曜は夜も営業して、地元のアーティストの絵を飾ってイベントを開いたりするので、若者から元若者までいろんな人が集まります。気取って入りにくい雰囲気はなく、子連れや犬連れの人も来る開かれた場所です。

私たちがその店に行った金曜の夜は、混み合っていて、注文をするカウンターには少し列ができていました。私たちの前には小柄でおしゃれな青年が1人で並んでいました。

残念なことに、どこの世界にも厚顔無恥な人はいるもので、従順に待つ我々の列を無視して、1組のカップルがカウンターに割り込み注文をしました。周りが見えなかったのか私にはわかりませんが、もし気づかぬフリをして“イノセントな私たち”を演じているのなら、とんだ図太い大根役者です。私が監督だったら、たとえ職場の暴力として後から訴えられたとしても、丸めた台本を力の限り彼ら目掛けて投げつけているでしょう。

とはいえ、現実には何も言えない私は、相方と顔を見合わせて眉をひそめるだけだったのですが、相方は私たちの前にいた小柄でおしゃれな青年に「強く行かないと、このままじゃ順番はやってこないよ」と笑いながら話しかけたら、青年は「僕はカルマを信じているから、きっと順番抜かしした人には悪いことがあって、ちゃんと世の中は因果応報になってると思うんだ」というようなことを言ったそうです(私は言葉がわからなかったので後で相方に聞きました)。

純粋と言いうか、ナイーブと言うか、神を信じているのか、まだ世界に希望を持っているのか。そんなこと言ってたら世の中生きていけないよ。しかし、濁った目をした中年が、澄んだ瞳の青年に、余計なことを言うものではありません。

無事、注文ができてドリンクを受け取れた我々は、賑わう店内の片隅でこの青年と立ち話をしました。青年の名前は聞いたのですが、1秒後には失われたので、私の脳みそをどう絞っても出てきません。アメリカのコメディアンに、母親がキューバ人で父親がドミニカ共和国人のマルセロ・エルナンデス(Marcello Hernández)という青年がいるのですが、小柄でキュートな雰囲気が似ていたので、この青年を勝手にマルセロくんと呼んでみます。

マルセロくんはアルゼンチンから数ヶ月前にこの島に移住してきたと言います。この島ではアルゼンチンの人々がたくさんいるようです。以前私の歯をクリーニングしてくれた歯科衛生士さんもアルゼンチン出身でしたし、よく行くレストランのウエイターさんもアルゼンチン女性でした。

マルセロくんはインテリア関係の仕事をしているということで、趣味で3Dプリンターで芸術的な何かしらの立体物を作っているとも教えてくれました。

笑顔でソフトでチャーミング、クリエイティブで未来に向い眩しく輝くマルセロくん、お母さんはきっと我が家のプリンスとして大事に育てたんじゃないかな、寂しがっていないのかな、と聞いてみると(マルセロくん少し英語ができたので)、アルゼンチンにいても状況が絶望的だから出て働くしかないんだ、というようなことを答えました。

私は世界の事情に全く精通していないし、政治も経済も地理の知識も救いがないし、アルゼンチンがどんな国か知らないし、メッシかマラドーナくらいしか思いつかないのですが、そんな私でもアルゼンチンの経済状態が相当危機的で人々が困窮しているということは耳にしたことがありました。

マルセロくんは幼なじみが先にこの島に移り住んでいたそうで、その友人を頼ってやって来たと言います。とてもスイートな友情です。

私は暗い話題を持ち出す特技を備えた人間でして、「ビザは大変じゃなかった?」と質問しました。同じく移民アジア人である私は、テクニカルな現実的な問題が気になったのです。

ひいじいちゃん(ひいひいじいちゃんだったかもしれません)が、イタリア人だったから、子孫であるマルセロくんもイタリアパスポートを持っていて、それでEUに移住することは難しくないのだ、と教えてくれました。アルゼンチンにはそういう人(欧州からの移民の子孫)がたくさんいるのだと。それは、あなたにとってとてもラッキーなことだね、と驚いた私は言いました。

南米大陸には、褐色の肌もいるけど、白い肌にブルーアイみたいな元ヨーロッパ人もかなりいるんだと以前に相方から聞いたことがあったのですが、そういうことか、とマルセロくんを視線で舐め回しながら納得したのでした。

アルゼンチンに彼女を残して来たそうで、ずっと会えていない彼女がもうすぐここに来るのだ、ととっても嬉しそうに言いました。彼女はマルセロくんのようにヨーロッパの国のパスポートを持っていないから居住許可をとるのは簡単ではなく、彼女を呼び寄せて、ここで婚姻手続きをしてビザ手続きをすることを考えていると私たちに話してくれました。

くすんだ心を持ち死にかけの魚のような目の中年は、うっかり「そんなに急がなくても、もう少ししてからでもいいんじゃないのかな」と訊かれてもない助言が口を突いて出てしまいました。「なんでみんな同じことを言うんだよ!」と少し顔を紅くして言うマルセロくん。彼のハートは、夏休みに子どもを連れて行きたい山の中の清流のように、泳いでいる魚や川底の小石も見えて、まだ住宅街や工場の排水に汚染されていないのです。

それが唯一、彼女と再開して一緒に暮らせる方法で、経済的に混乱した国から抜け出せる方法だと。

私たちはしばらく立ち話をして、「グットラック」とマルセロくんに言って別れました。それから、私たちは毎週その店に行き、時々マルセロくんのことを思い出しましたが、再び彼の姿を見ることはありませんでした。

数ヶ月たち、同じ店でビールを飲んでいました。店が混んできたので、そろそろ帰ろうか、と周りを見た時、スイートな清流プリンス、マルセロくんの姿が目に入りました。私は大きく手を振り、マルセロくんも気がついて笑顔で手を振り、私たちはハグをして再会の挨拶をしました。

マルセロくんは、隣に座っているダークなカーリーヘアの女の子を紹介してくれました。私たちが、そんなに急いで結婚しなくても、と余計なことを言った、マルセロくんの彼女は3ヶ月前に島に到着して今一緒に住んでいるのだそうです。

彼女は、元気いっぱいの笑顔で勢いよく私の頬にキスをして、強くハグをしてくれました。想像していた彼女とはずいぶん違った女の子でしたが、一度見たら忘れないようなとても印象的な、個性的で芯のある魅力的な女性でした。

婚姻の手続きはこれからですが予定はたっているようで、手続きをしたら休暇をとって島の内陸の静かな小さな町に2人で行くのだと話していました。もちろん2人の家族は来られないし、海外旅行も行けないけど、そんなことはいいのだと。

母国から遠く離れたこのカフェの雰囲気に溶け込むヒップスターな2人は、とてもとても幸福そうに見えました。

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