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救急車を呼んだ日

昨年の5月3日、
人生で初めて救急車を呼び
保険証やお薬手帳を持って
号泣しながら同乗しました。

父が呼吸困難になったためです。

それから約2週間後に父は亡くなりました。

父が余命宣告を受けて看取るまで
色々な感情がわき
時間はあっという間に過ぎていって
明日どうなるかもわからなくて、
あの期間どんな日々を送っていたのか
自分はどんな気持ちでいたのか
正直よく覚えていません。

父が亡くなったなんて、
それすらもよくわかりません。

でも、救急車を呼んだ日のことは
強烈に覚えています。

今も救急車のサイレンが聞こえると
そのときのことを思い出します。

その日は珍しく家に父と私しかおらず、
一緒に録画したテレビを見ていました。

当時、父には息苦しさや
食べ物が飲み込みにくいというような症状が
多々みられていたので、
もちろん心配ではありますが
「いつもの息苦しさ」と思って
その日も父の様子を見ていました。

でも呼吸がうまくできない時間が
いつもより長くて、
テレビを一時停止しました。

そしてかすれる声で父に
「救急車」と言われました。

119に電話をかけた自分の声は震えて
焦りや動揺が自分でもわかりました。

救急隊の皆さんが到着するまでが
本当に怖くてたまらなくて、
父を安心させたいのに
自分も息があがってしまって
背中をさすったり手を握りながら
ただ祈るしかできなくて

そうやって待つ中で
救急車のサイレンが聞こえてきたときは
安心感から涙がこぼれました。

救急隊の方に酸素マスクをつけられた父は
意識が薄いように見えて、
これからの日々が変わっていく予感しかなくて
救急車の助手席に乗っている間
私はずっと泣いていました。

「お父様に持病はありますか」
と聞かれたとき、
持病云々ではなく既に緩和ケアの段階にいた父は
普通の状態ではないことを思い知らされました。


病院に運ばれたあとは
入院せず自宅に帰ってこられたのですが、
鼻に酸素カニューラをつけ始めました。

また、管がひとつ増えてしまいました。

そこから息はしやすくなったのですが、
きっと心は弱ってしまい
飲み込む力(嚥下)も落ちてしまい
私の心も一番落ちました。

尊厳を持って生きるってなんだろう
と考えたり

どんな父でももっと一緒にいたい
とただ願っていました。

そんなときにこのnoteを書き始めました。



救急車を呼んだあの日は、
父の体調の転換点でした。

あのとき来てくださった救急隊の皆さん
(消防車も来てくださるのですね…)
心から、ありがとうございました。

すぐに駆けつけてくださったお陰で、
私が父といられる時間は伸びたのだと思います。

この記事を書きながら、
久しぶりに父のことで泣いています。

やっぱり、父が亡くなったのは事実なのだなぁ。

5月の気候は大好きですが
私にとっては心に負担のかかる期間です。

でも忘れることが一番避けたいことなので、
きちんと心に留めようと思います。


以前私が参加したグリーフケアに
今日は母が参加しています。

どんな顔で帰ってくるかなぁ

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