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金閣寺を読む  第ニ章  花子出版

こんにちは。

金閣寺を読むの第二章です。
読んで記事を書くと、深く読み込めて有意義な時間です。なかなかいいもんですねえ。

それでは始めます。


金閣寺を読む  第ニ章  花子出版

梗概

父の死によって、溝口は少年時代はおわる。溝口は父の死を前にして、悲しみなどなく無力な感懐になった。
田舎の寺の住職の父は、住民の精神的な拠り所であり、死後を委託されたものであり、その父の死は職務を忠実に遂行したという感銘、更には死に方を教えていた人間が自ら実演してあやまって死んだような、一種の過失と謂った感を与えた。
父の柩を前にして母や雛僧や檀家は涙を流した。溝口は周りから覗き込まれている屍を前に、見るということが生きることへの権利の証明だ、と自分の生を確かめてみることを学んだ。

父の遺言どおり、溝口は金閣寺の徒弟になった。そして、臨済学院中学に転校した。学資は住職が出し、その代わり溝口は掃除や住職の身の回りの世話をした。
戦時中の寺は、やかましい寮頭は兵隊にとられ、老人と若者だけだった。溝口は安堵する。
金閣を前にし溝口は呟く。
『金閣よ。やっとあなたのそばに来て住むようになった。今すぐでなくてもいいから、いつかは私に親しみを示し、私にあなたの秘密を打明けてくれ。あなたの美しさは、もう少しのところではっきり見えそうで、まだ見えぬ。私の心象の金閣よりも、本物のほうがはっきり美しく見えるようにしてくれ。又もし、あなたが地上で比べるものがないほど美しいなら、何故それほど美しいのか、何故美しくあらねばならないのかを語ってくれ』と。

溝口は金閣周辺の掃除をすませ、暑熱をさけるように裏山に上がった。すると、東京弁を話す鶴川が寝転がっていた。溝口に気づいた鶴川は、
「いいんだよ、そんなにまじめに掃除なんなしなくても。どうせ見物が来れば汚されちゃうんだし、それに見物の数も少ないんだから」
と言った。
溝口は鶴川の隣に座り、父の死について話した。鶴川の問いに、溝口は曖昧な返事をする。曖昧なのは、感情にも吃音があったからだ。感情がいつも間に合わない。よって、父の死という事件と悲しみという感情が、個別の事象となり、結びつかないのだ。
鶴川は笑い出し、
「へえ、変わっているんだなあ」
と言った。

戦争は激化してゆき、新聞に「帝都空襲不可避か?」という見出しが溝口の目に入る。やがて金閣が灰になるのことは確実なのだと思うと、金閣が悲劇的な美しさを増すのであった。
学校が始まる前日、鶴川は溝口を映画鑑賞に誘ったが、乗り気でない溝口の気持ちが鶴川にも移り、金閣を見に行くことになった。溝口は空襲で焼ける前の金閣を見たかったのだ。
溝口と鶴川は会話を続ける。勿論、溝口は吃りが入った。吃りを嘲笑しない鶴川に溝口は驚嘆し、鶴川の優しさに触れた。

それから終戦までの一年間、溝口と金閣は最も親しみ、その安否を気づかい、その美に溺れた時期だ。どちらかといえば、金閣を私と同じ高さまで引上げ、怖れげもなく金閣を愛することのできた時期だった。経も習わず、本も読まず、日々修身と教練と武道と、工場や強制疎開の手伝いに奮励する。そんな日々の中、溝口は戦火で焼ける金閣を思うのだった。金閣が焼け、そのとき頂きの鳳凰は不死鳥のようによみがえり飛び翔つだろう。

戦争末期の京都、溝口と鶴川は南禅寺に出かけた。境内に入り、狩野探幽守信と土佐法眼徳悦の筆になると色鮮やかな天井画を見てまわる。
その時、道を隔てた天授庵一人の若い女が座っているのが目に入った。派手やかで人形の女に目を奪われる。二人が眺めていると天授庵の奥から軍服の若い陸軍士官があらわれた。
突然、女は襟元を緩め白い胸を出して揉み、士官が持つ茶碗に白い乳を絞った。男は茶碗を掲げてそのふしぎな茶を飲み干した。女は襟を戻し、胸を隠す。
この珍事に溝口は有為子を執拗に想起し、女はよみがえった有為子だと確信した。


以上梗概。

以下、私の読書感想。

溝口の父の死から一気に物語が進み、金閣寺の重要人物の鶴川があらわれた。東京生まれの鶴川に吃音症の溝口が心を許す場面は、感慨深いものです。幼少期から侮られた溝口にとって、初めての親友と呼べる人物だったのではないだろうか。
戦争によって金閣が燃える姿を溝口は何度も想像するが、惚れ込むが故に頂きの方法が飛翔して欲しい感情は、私も理解します。ニュアンスは違うかも知れないが、人間に見せ物という呪縛からの解放、真の自由こそが真の美ではないだろうか。
最後の女の乳入りのふしぎな茶で、有為子を想起する場面も付箋の回収と新たな付箋という両立で、感情が揺れ動く。


第三章に続く。


花子出版   倉岡剛


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