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金閣寺を読む  第一章  花子出版

こんにちは。
三島由紀夫先生の金閣寺。不朽の名作であります。
私が手に取ったのが28歳の時。
初めての三島文学の扉であり、とても堅牢な扉でしたが、それは転機となる一冊となりました。

今度、金閣寺について知人と話すことになりましたので、改めて耽読し記事を更新します。新たな発見があることでしょう。

それでは始めます。


金閣寺を読む  第一章  花子出版


梗概

太平洋戦争の頃、吃音症をもった京都舞鶴東郊志楽生まれの溝口、この少年が『私』という一人称で物語は始まってゆく。
父から「金閣ほど美しいものは地上にない」と言われ、金閣寺への激しい思いが動き始める。その思いは多面に現れる。遠い田の面に煌めく日を金閣の投影を見た。そして峠に昇る朝日を見れば金閣が聳え立っていると見た。

溝口は吃音症を持ち、体が弱く、運動神経も悪かった。戦争の時代、クラスメイトから弄りを受け、「何だ、吃りか。貴様も海軍に入らないか。吃りなんか、一日で叩き直してやるぞ」と嘲笑された。その時、溝口は「入りません。僕は坊主になるんです」と答える。

有為子という娘が近所に住んでおり、溝口は有為子に好意を寄せる。有為子の体を思って、眠ることができないこともあった。
有為子に会うために暁闇の中、待ち伏せをした。すると溝口と出会った有為子は「何よ。へんな真似して。吃りのくせに」と言い捨てた。そして、有為子は溝口が待ち伏せしたことを告げ口し、有為子の母が溝口が住む叔父の家にやってきた。溝口の待ち伏せの件を知った叔父は溝口を叱責。
その時、溝口は有為子の死を願った。

死はすぐに訪れる。

有為子は彼氏の脱走兵を匿っていた。脱走は戦時中で許されない行為であり、憲兵が脱走兵と有為子の関係を突き止め、密会する場所に追い詰めた。有為子の私を願う溝口もお祭り気分で憲兵の後を追った。そして二人の自決を見た。

次の年の春休み、溝口は肺患の父と京都へ向かう。自分の中で練られ続けていた金閣寺への思い、これが昇華するはずだった。
金閣寺を前にし、「どや、きれいやろ」と病んだ父の手が溝口の肩に置かれる。
しかし、溝口は何の感動も起こらなかった。金閣寺、それは黒ずんだ小っぽけな三階建にすぎなかった。頂きの鳳凰も、鴉がとまっているようにしか見えなかった。美しいどころか、不調和な落ち着かない感じさえ受けた。こんなに美しくないものだろうか、と溝口は考えた。

祖父の家に帰った。失望を与えた金閣寺が溝口の中で再び美しさを蘇生させ、見る前より美しい金閣寺となった。そして、「地上でもっとも美しいのは金閣だと、お父さんが言われたのは本当です」と、初めて父へ向けて手紙を書いた。
すると、折り返して母から電報が届く。父は夥しい血を吐き死んだと。

以上、梗概。

以下、私の読書感想。

吃音症を持った少年の内面を、明瞭で簡潔で且つ荘重で淡麗な言葉で綴られている。僕が初めて触れた三島文学だけであった、『金閣寺』の第一章にはとても衝撃を受け、それまで読んでいた本が虫ケラのように思えるほどだった。
告げ口をされた有為子の死を願い、その死が成就した瞬間の描写がある。芸術というのは、こういったものだ。人間の内面には、悪徳が存在している。マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』にもある通り、人間は一筋縄ではいかない。勿論、社会生活をおこなっていると悪徳を過度の前面に現すことは現実的ではない。倫理や社会性で阻まれる。
だが、思想することは往々にしてあるだろう。私も聖人とは程遠く、計り知れない嫉妬を抱くことがある。
こうやって主人公に共感を抱く、いや三島文学によって読者の劣等感などの感情が昇華されるなら、文学の本望ではないだろうか。


第二章に続く。



花子出版   倉岡剛



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