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瀧波ユカリ『はるまき日記』~懲役30年のアヒルさん、他~

    「共感」は読書の楽しみ方の1つですが、育児物を貪り読む今の私の目的は概ねそれです。なかでも、好きな作家の育児物なんて、これ一冊だけだし大事に読まなきゃ、と、製造中止される前に買いだめしておいた好きなお菓子を食べるみたいにちびりちびり読んでたんですが、この度とうとう読み終わってしまいました。
    なくなっちゃった……と一度は肩を落としたのですが、書籍はお菓子と違ってまた読むことが出来るのがいいですね。読み返しながら今回ご紹介するのは、瀧波ユカリ著『はるまき日記~偏愛的子育てエッセイ~』

1.内容は

    ギャグセンスと洞察力、日常のふとした気付きを逃さずに言語化する力に秀でた母親が書いた育児日記。育児日記といってもかなりエンタメ寄りで、正確な記録というよりは、育児の悲喜こもごもと赤ちゃんへの愛が変換された笑いがメインです。別冊文芸春秋で連載されていたものが書籍になっています。
    2010年9月に生まれた娘さん、通称「はるまき」を中心にまわる、2010年11月から2011年11月までの一年にわたる筆者家族の生活が綴られています。

    読み始めてさっそくクッション計画に度肝を抜かれる。新生児時期、我が子の小さな手に、取っても取っても埃が絡まる、というのは私も覚えがあるのですが、よもやこの埃を集めていつかクッションを作るんだ!    なんて発想、私からはどこをどう叩いても出てきません。

    お風呂から出れないオモチャを懲役三十年のアヒルさんとか、電車に無賃乗車しようとするインド人みたいに追いすがってくる祖母とか、赤ちゃんの歩き出しはドリブルしている餅とか、1ページに3つも4つも休みなく仕掛けられているふざけた表現がとても楽しい。
    極みつけは中盤、失敗したカレーに端を発した諍いの末、家を飛び出したまま帰らない夫を心配し、筆者が悪い想像を重ねた挙げ句に育児日記なのに夫死亡で連載終了とか言い出すブラックさには笑ってしまいました。

    また、時折感じられる筆者独特の視点が味わい深い。例えば、ポケットティッシュ配りのお姉さんからティッシュを受け取るはるまき氏(←敬称に迷った末の着地点)について。
    お互いが無関心にすれ違う人々のなか、唯一世界に対して心を開いているお姉さん、平等であることの証明のように全ての人に与えられるティッシュ。見知らぬ人からの突然の贈り物を、ひっくり返しひっくり返し、丹念に調べるはるまき。まるで人間社会の一員になるための、重要な秘密がそこに隠されていると確信しているかのように。
    ……かなり要約しましたが、作中、こんな記述もふんだんに読めます。日常の一コマも、見る人が見ると、汲み取れるものは違うものだな、と気づく一冊でもあります。

2.絶対共演NGのアレとソレ

    しかし読むなかで何回も「お、おう……」と怯まされたのが、育児日記に躊躇なくちりばめられた下ネタの数々。さすがは瀧波ユカリというべきか、『ベビーマッサージはペッティングだ』とか平気でぶっこんできます。
    下ネタと子どもって、私のなかでは感覚的に絶対共演NGなんですよ。どれくらいNGかというと、私、息子を膝に乗せてテレ東の『シナぷしゅ』を毎日見るんですが、番組内で『がっしゃん』のコーナーが始まる度に、「みーたん、オイラとがっしゃんしようよ」なんてクソみたいな下ネタと、そんなものを自分は思い付いてしまったのだという事実を思い出しては、やり場のない罪悪感を抱えているくらいにNGです。

    ……あれ?
    自分だけ潔癖ぶるつもりだったのにね。

    筆者は赤ちゃんを「赤ちゃんだから」と特別扱いすることを嫌っているのかもしれません。はるまき氏の愛らしさに惚れ込む自分を「恋してる」と言い切る一方で、「はるまきはいずれ独り立ちし二度と戻ってこない前提で育てている」と公言する。筆者は自身の美学に基づいた距離感を、意識的に自分と我が子の間に置いているようにも感じました。

3.東日本大震災

    上述の通り、本作に綴られているのは2010年の11月から2011年の11月。これを見て、気づいた方もいるでしょう。
    2011年3月が含まれていることを。
    毎回新しい月の最初には、扉絵的にはるまき氏のスナップ写真が掲載されます。しかしこの3月は、真っ黒な地にポツンと一枚のレシートだけが浮かび上がっている。記された日時は、2011年3月11日14時47分。東京にいた筆者が、激しい揺れのなか受け取ったレシートです。

    2011年2月までに綴られていた日常は一変します。愛しくて大切で、そして庇護しなければすぐ死んでしまうひ弱な存在を抱きしめながら、骨組みだけになった原子炉の映像を見つめる。筆者の不安が伝わってきます。
    何もかもが品薄のスーパー。狂ったように繰り返されるACのCM。放射能の恐怖。ああ、あの頃はそうだったなと思い出される。

    さて、我が子を守るため、実家のある北海道に筆者一家は避難します。
    東京から自分だけ逃げたのか、と責められているような気持ちを抱えながら、札幌の桜を暗い気持ちで見つめる筆者。お花見という場で我々は花を愛でていたのではない、花を愛でることの出来る平和を愛でていたのだ、と気づく。
    また筆者はこうも思います。どこかに、何も起こらず楽しい春を迎えている日本が存在している気がしてならない。パラレルワールドはいつ出来たのか、どうして自分はこっち側にいるのか。
   
これ、ずっと続くと無意識に思っていた平和な日常が突然消滅したことが信じられない気持ちを、よく表していると思います。
    消えたんじゃない、どこかにあるはずだ。今いる世界が間違ってるんだ。そう思ってしまうほど、日常の消滅というのは受け入れがたいものなのでしょう。
    なんの前触れもなく明日日常が崩壊する可能性があるなか生きている。私たちは、私たちが自覚する以上にハードな世界にいるのかもしれません。

4.江古田ちゃんじゃない!!問題を考える

    実はこの書籍、読んでいなかっただけで存在はかなり前なら知っていました。レビューだけ見て、意外と辛口な感想が多いなと思った記憶があります。

    今回改めて反響を調べたのですが、やはり好き嫌いがかなり分かれる作品のようです。
    数々見られる拒絶反応も種類がいくつかあるようで、以下箇条書きで分類してみると、

・「育児」と「下ネタ」の同居が許せないという私のような潔癖派
・育児の苦労話やノウハウを期待したのに読んでみたらふざけた内容ばかりじゃないか派
そして、
・江古田ちゃんじゃない!!派

    前の二つは、感性や求めるものの違いなので仕方ないとして、興味深かったのは三つ目。これについて、少し考えていきます。

    その前に、江古田ちゃんって誰?    という方のために説明しておきます。
    瀧波ユカリのデビュー作『臨死!江古田ちゃん』。キャバクラやヌードモデルなどハードなバイトで日銭を稼ぐフリーター・江古田ちゃん。一夜を共にした男は星の数、しかし本命の男・まーくんには、二番目の女として不憫な扱いをされ続けている。そんな彼女が、男女や社会、若者等をシニカルな目線からバッサバッサと切る4コママンガです。

    生活感溢れていてまるで自伝のようなので、瀧波ユカリ=江古田ちゃん、と錯覚する気持ちは分かります。今回、自伝ならずとも日記という形で作者の生活が明かになり、『江古田ちゃんではなかった瀧波ユカリ』が明確になったわけですが……。
    さて、作者が江古田ちゃんじゃない!!ことが、どうして問題になるのか。ここで突然ですが、一項で挙げたインド人の例えを振り返ります。

    可愛い孫との別れをおしみ、はるまきが乗る電車が発車した後も追いすがってくる筆者の母の様子を「無賃乗車しようとするインド人みたい」だったと筆者は書いています。私はここ、おもしろくてとても好きです。
    が。
    ここで「インドの方に失礼だし、そういうの良くないと思います!」と真顔でキレられたら。「えっ、あ……すんまへ、そういうつもりじゃ……」と謝るしかないわけです。

    この笑っていい・いけないのラインは非常に難しくて、人によって位置は異なり、正解はありません。
    そして重要なのは、表現を受けとる人によって異なるだけでなく、表現をする人によっても異なるということです。

    私見ですが、このライン、表現する人が社会的弱者であればあるほど緩く、強者であればあるほど厳しくなると思います。
    定職につく目処もなく男にぞんざいな扱いをされ続ける江古田ちゃんが、インド人の例えを口にするとワハハと笑った人も、成功した文筆家で家事育児に積極的な歌って踊れる夫と母の為にはベロチューも辞さない可愛い娘もいる瀧波ユカリが口にすると、失礼だ!    と怒るかもしれない。

    つまり、同じ筆者が書く二つの作品、片や「江古田ちゃん」という架空の弱者を通して書くと受け入れられ、片やエッセイとして筆者を直接的に登場させると受け入れられない、という現象が起こっているように思うのです。

    更に問題を複雑にしているのが、時折筆者が挟む「他の子よりはるまきの方が絶対可愛い!」という親バカ節。
    自身の「親の欲目」フィルターを自覚していることを作中で何度もことわったうえで、尚も「はるまきが一番可愛い」と書くのは、分かっていてものろけずにはいられないという親バカな「自分サゲ」に他なりません。毒を吐く自分自身をサゲることによって、毒とのバランスをとる試みともとれるのですが……。
    文面通り、我が子だけが可愛いと本気で筆者が思っている「はるまきアゲ」と読者が受け取ってしまうと、これは逆効果です。他者に毒を吐くのみならず我が子だけは可愛いなんて、なんとまぁ傲慢な筆者だ!    と腹をたてられてしまう。

    おそらく筆者は、はなから万人受けする作品を目指してはいないと思うのですが、受け止め方も様々な世間に対し作品を発表することの難しさよ。プロの作家って大変ですね。

5.最後に

    私は冒頭で、共感を得たくて育児物を読んでいる、と書きました。しかし「共感はここにはない!」    と書籍紹介文にばっさりと切られ、筆者自身、育児を知らない方が読んで面白いものを目指した、とコメントしています。
    確かに、子育てアルアルという枠からは大きくはみ出た、読み物のしての面白さが十分にあります。

    では、子育て中の身として読んでみてどうだったかというと。
    こんなことある!    という共感はありますが、あくまで客観的な事象限定。子育てしんどいワーという主観的な感想から、ウチだけじゃないんだと慰めを得たいなら、確かにそこに共感はなく、代わりにあるのはギャグとユーモアの嵐です(明記されていないだけで、過酷さを伺い知ることは出来るけど)。
    そのことを了承していただけるなら、子育て中の方にも是非読んでいただきたい一作です。
    私にとっては、この方のセンス好きだなぁと改めて思うと同時に、もっと楽しく育児しようと前向きになれる作品でもありました。

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