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【映画鑑賞記録】 BLUE GIANT

漫画原作の映画化ということで、
ほぼ前情報なしにふらっと観に行ってきた。

正直に言うと、漫画原作の大ファンである主人に「行こう」と誘われてついていく形の鑑賞。

結果、静かな期待を良い意味で裏切られ、
想像以上の音楽映画になっていて終始感情が揺さぶられることに。

〜※以下、映画の内容を少し含みます。〜

物語は主人公の大が来る日も来る日も河原でひとり練習を重ねる印象的なシーンから始まる。

漫画原作ではこの大の練習シーンこそが"大そのもの"であり、
音楽への想いを土台で奏でるベースのように淡々と描かれている。

そして鑑賞後、揺さぶられた感情のまま「そうだよね」と。

「そして自分はどこに向かうのか」とそればかり考えていた。

18歳の頃、なにを思っていたか?
18歳の頃、なにになりたかったか?

令和に生きる大人がこの作品を観る時、そこに嘘もごまかしも通用しない。

「内臓をひっくり返すくらい自分をさらけ出すのがソロだろ」
というセリフ。

ハッとして思わず息を呑んだ。

ただそこにある"純粋な想い"だけが、
内なる真実なんだとまざまざと突きつけられるから。

駆け引きは通用しない。

"情熱"というメロディラインに乗ったまま最後まで一気に物語の着地点へ向かう。

さらに上原ひろみさんの音楽は魂に響き、終始圧倒される。

また漫画原作で描かれていた独自の演奏シーンは、
今回アニメーションの時間軸にのって、新しい彩りを見せていた。

アートと感情、音楽と映像、
それらをすべて融合した、

まさにセッションのような。

映像の中で動く大は、漫画で観た感情表現を見事に体現していた。

そして、大の演奏シーンやセリフの一つ一つを受け取るたびに、
ひどくざわざわとしたものが胸にうごめいた。

自分は今、なにをやっているんだろうと。

ただまっすぐでいること。

見せかけではなく、本当に相手を思う気持ち。

そういったものを全て揺さぶられる。

大の奏でる演奏の熱に、「本当の自分は何か?」とまっすぐ問われる。

ゼロからのスタートでほぼなにも持たない大が、
18歳で世界一のジャズプレーヤーを目指すと決意し、
それから日々を生きる姿勢にノックアウトされる。


どんな人も、どんな大人も、表現をやめたら自分でなくなる。


「自分で考えることを辞退して誰かが言ったとおり」は、
これからの時代もう通用しない。

自分の信念を疑わず貫く強さを、
もう一度思いださずにはいられないようだった。

こんなにも泥臭く、内蔵をえぐられるようなひたむきさ。
純粋で美しい人間のもつ可能性に、「こうしてはいられない」と思う。

***

映画ではカットされていたけど、
わたしは漫画原作の兄が大にサックスを贈るエピソードが大好きだ。

漫画にしかない良さもあるけど、
映像だけの醍醐味である時間軸と音を絡めた表現に、
改めて2時間どっぷりとひたれるこの贅沢さも味わえる。

***

ところでJAZZはロックバンドのようにメンバーを限定せず、
その時その時で集まったり解散したりを繰り返すという。

自由で縛らない、自立した演奏者達がお互いのプレイを持ち寄って、
その場の空気をパッションで満たす。


そういった自由さが好きだ。


共依存ではない、表現者同士の真剣勝負がクリエイター魂に響く。

自由であるために、プレーヤーは自分の技術を極限まで磨いていく。

河原で練習を繰り返す大の集中力と1点を見据える眼差し。

本物になるってこうゆうことだと、背筋が伸びる。

大のセリフで一番印象的だったもの。

「オレはヘタでもクソでもサックスを吹く時は1分1秒、いつでも世界一だと思って吹いてる。」


そこでいなければ、物事はなにも始まらない。


まずは自分が一番、そう信じていなければ。


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