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『ミッドナイト・レディ』

真夜中に一人佇んでいるような人だ。


黄昏時、彼女の運転する車に乗せてもらうと、夜に連れてゆかれるような錯覚を覚える。夜の帳が、彼女を迎えに来ているかのような。彼女はあたりが暗くなるごとに、少しずつ口数を増す。蕾が綻んでいくかのように、本当の姿を取り戻す。


ハンドルに手をかける彼女の白い指には、夜色のレースがかけられている。月明かりに透かされて、大粒のスワロフスキーがレース越しに光る。水面を湛えたような彼女の瞳と同じ色だ。


ミッドナイトブルーのパールチェーンが揺れる金縁眼鏡を細い指で持ち上げて、彼女はこちらを少し見た。いつ渡そうかと考えてばかりで上の空だった私に気がついたようだった。私はネイビーの包み紙に金のリボンをかけたそれを彼女に差し出す。彼女は車を停めて、それを受け取った。


「素敵な耳飾りね」


彼女はまるで小さな子供みたいに目を輝かせる。あのカフスブレスレットも眼鏡チェーンも、私が彼女に作って贈ったものだ。


「つけてみてもいい?」


「もちろん」


彼女は大切そうにその耳飾りを身につけた。思ったとおり、それは彼女にとても良く似合う。特別美人という訳でもないのに、どうも普通という感じがしない女性だ。身につけるものも、特別なものがいい。


「センスがいい友人を持って幸せだわ」


私の方こそ、彼女といるとインスピレーションが湧いて止まらない。増えていく小じわと共に増していく彼女の魅力に、老いることが楽しみだと思わされる。彼女に憧れて、私は今まで意味もなく守ってきた普通を捨てた。最初こそ服に着られるようなむず痒さを覚えたが、背筋が伸び、視線が上がり、少しずつ違和感が消えてゆく度に私はなりたい自分に近づけた。「変わった人がいる」という好奇の視線と同じくらい、「素敵な装いね」という共感の声が増えていく。そういう人は一見ごく普通の装いに見えても、アクセサリーや小物やスカートの刺繍、袖口のレースと、細かい部分にロマンと個性を潜ませていたりする。そういう素敵な人が沢山いることに、以前は気がつけなかった。


「自分には似合わない」だとか、「普通じゃないかも、目立つかも」というような、最もらしい理由で自分らしさを押し殺していたことすら昔は気がつけなかった。自分は平凡な人間だなあ、なんて。自分は世界の中心じゃないと、「身の丈をわきまえて」生きることが大人だって、何となく思っていた。


だけどそれなら、彼女のような素敵な人も、「身の丈をわきまえて」生きなければならないの?それは違う。私よりテストの点数が低い人や、私より体力テストの結果が悪い人や、私よりなにかが劣っている人は?それも違う。誰かよりどれだけ劣っていたって、他人にどう生きるか決められる筋合いはない。それなのにどうして自分のこととなると、他人のために粗末に扱って良いような気持ちになるんだろう。


「怖いのね。自分で何かを決めることは誰にとっても怖いことよ」


彼女は優しい声色でそう言った。あれは過去の自分を見るような気持ちでいたのだと、後でわかった。


「自分一人の責任でひとつの人生を生きるというのはとても怖いことだけど、誰かにその責任を預けるのはもっと怖いこと。名前も知らない誰かや、誰でもない有象無象の群衆が作った舞台に、自分自身の名前が刻まれているようなもの。あとからそんなの知らないって喚いたって、それを選んだのは自分自身なのよ」


それを聞いたときはすぐには分からなかったけど、ベッドの中でその言葉を思い出してふいに恐ろしくなった。今の私の脚本は、誰が書いたものだろう。本当に、私が書いたものだと言えるだろうか。


一度きりの人生駄作になんかしたくないから、大人のいうことを聞いていた。そうしておけば、道を踏み外すことはないと思ったから。だけどこの脚本のなかに、自分が書いたと胸を張って言える部分がどれだけあるのだろう。誰かが書いた"正しい"脚本を生きることと、例えそれがどんな駄作でも、他でもない私自身が書いた脚本で生きること。比べるまでもないと、今なら、言える。


たくさんの人に囲まれていて、孤独とは縁遠い彼女が真夜中に一人佇むような雰囲気を纏うのは、自分の人生に自分で責任を持ち、暗闇の中を一人歩いてきたからだろう。彼女があんなにも美しいのは、この世の中に溢れている他人の脚本に耳を貸さなかったからだ。迷いもしただろうし、苦しみもしただろう。私と同じだ。私が勝手に舞台を降りたまま、彼女の隣に立つ資格はない。


白い帯を結び、ミッドナイトブルーのパールが煌めく帯飾りをつける。いまどき少しくらい変わった格好をしたって、だれも気に留めたりなんてしないことを最近知った。本当に好きなものの前では、ちょっとした好奇の視線やなんかは、スパイスにしかすぎないことも。


私がどんな選択をしても、それが私自身のものである限り、きっと彼女は認めてくれる。私が何を為せるかじゃなくて、私が私であろうとすることに価値があるの。私にとっての彼女がそうであるように。


『ミッドナイト・レディ』



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