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6月九日ロックの日に

 地元の友人が、通っている施設の会で、3年前に出版した私の第1詩集『世界と繋がり合えるなら』を紹介してくれたそうだ。
 その紹介を聞いた参加者の一人が涙ぐまれていたと、今日の午後ラインで教えてくれた。
 とても嬉しかった。もちろんとても嬉しいことなのだ。しかしその一方で、いったいその人はどのような理由から涙ぐまれたのかが若干気になるところでもあった。

 これから書こうとしていることは、私が子供の頃から蓄積されてきた経験や言葉が強く影響しているのだと思う。

 「目が見えないのにすごいねえ」
「目が見えないのにそんなことできるの?」
「がんばってるねえ」
「感動しちゃった」

 勉強にしても、活動にしても、生活にしても、生まれつき全盲の私が何かをして、それがどんなに些細な事だったとしても、できるんだと知ると、周りの大人たちから何度となくそんな言葉を浴びせられてきた。そう言われる度に、子供ながらにいつも複雑な気持ちにさせられた。
 目が見えない私は、こんなことをしてはいけなかったのだろうか。できちゃいけないのだろうか。
 何をやっても特別なこと、すごいことにされてしまうのが苦しかった。
 それなら何をすれば特別なこと、すごいことにはならないのだろうか。普通のこととして見てくれるのだろうか。
 こんなにがんばっているのに、これ以上何をがんばったら良いのだろうか。
 何をやっても認められないことが本当に辛かったし、とても苦痛だった。

 たぶん詩集を出版することは誰にでもできることではないのかもしれない。
 それでも詩やエッセイを書いて、ネットに投稿することなら、やろうと思えば誰にでもできるはずだ。
 私が詩人やnoterをしているのは、目が見えないからやっているのではない。健常者の皆さんと同じように、書くことが好きだから、自分が書いた物を誰かに読んでもらいたいからそうしているのだ。たまたまそれをやっている人が全盲者ってだけで…。
 それは何も特別なことではないと思う。

 きっと冒頭の人は「目が見えないのに…」というような同情の気持ちから涙ぐまれたわけではないと思う。そう信じたい。
 しかし、子供のころからそのような言葉を投げかけられたり、その言葉たちにより何度となく傷つけられたりしていると、どうしてもうがった考えを抱いてしまうのも事実なのかもしれない。
 もっと他人を信じられるようにならなければと、6月九日ロックの日に改めてそう強く思ったのだった。

 そんな私の第1詩集『世界と繋がり合えるなら』、改めまして応援よろしくおねがいします。↓

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