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ぼくたちは、自分の行動さえ理解していない

つくづく人を「評価する言動」ってのは怖いものだなと思います。

「できる・できない」とか「よい・わるい」という判断基準は、その集団を構成する「みんな」が納得しているからこそ守られます。

そんな「ルール」と呼ばれるものは、最初から決まっていたはずがなく、先人の知恵によって決められました。

もちろん、先人たちは「これをやられちゃあ、集団として成り立たないよね。」という必然性があったからこそ決めたのだとは思います。

ただ、そんな「ルール」をたまたま決める立場に祭り上げられてしまった人たちもいる。

その一人が「先生」という仕事でしょう。

分かっていますよ。先生たちにも悪気はないということを。

ただ、「〇〇さんって◇◇だよね!」と自分の評価軸だけで判断することって、ものすごく残酷なことでもあると思うのです。

そんな話をテーマとして書きましたので、興味本位で読んでみてくださいね。

▼ぼくたちは「知っている」と勘違いしている

最初におもしろい研究を紹介します。

認知科学者のフランク・カイルさんとレオン・ロゼリンブリットさんは、実験参加者に対してこんな質問をしました。

「あなたは、ファスナーの仕組みをどれだけ理解していますか? 7段階評価で答えてください。」

さて、あなたなら自分のファスナー博士レベルをいくつと評価するでしょう。

ただ、質問はこれだけでは終わりません。次に、

「ファスナーは、どのような仕組みで動くのか、できるだけ詳細に説明してください。」

と、追い打ちをかけたのです。

すると、実験参加者のほとんどは、「そんなこと言われても…」と「分かっていなかった」ことに気づきだす

そして、とどめのこんな質問。

「もう一度、あなたはファスナーの仕組みをどれだけ理解しているか、7段階評価で答えてください。」

性格の悪さがぷんぷんしますが、どうやら実験参加者の「ファスナ―知っているぜ評価」は、

「1回目に質問された時よりも、2回目の方が低評価になった。」

ということは言うまでもありません。

大切なのは、カイルさんとロゼリンブリットさんの性格が悪いということではなく、

「人間は、ほとんど知らないのに『知っている!』と勘違いしやすい生き物である」

ということ。

問われた「もの」や「こと」が、自分にとってより身近であればあるほど、「おれ、知ってるし!」になってしまうのです。

この教訓のおもしろさは、「もの」や「こと」だけではなく、「人間関係」にも応用できるというところにあります。

ぼくもやりがちなのですが、あなたも「残念な決めつけ」をしていないか考えながら次章を読んでみてくださいね。

▼「叱られたら反省するもの」という勘違い

ここまで、「人間は知ったかぶりをする生きもの」という内容を書いてきました。

ここで、「人間は台本通りにはいかない生きもの」という残念な生き物賞を付け加えさせてください。

例えば、「車の運転」を例に考えてみましょう。

言うまでもなく人間は個性豊かですから、そんな人間が運転する車の動きも個性的。

たま~に、「えっ、そんなことしちゃう…」なんてびっくり運転にも遭遇します。

そんな理解に苦しむ運転技術を見た時も、きっと反応の仕方は様々でしょう。

そんな場面の多様な選択肢の1つのとして、

「車の窓を開けて『ばかやろう!』と叫ぶ」

というものがあります。

この「ばかやろう!」には、かなり深い意味が込められています。

「ばかやろう運転手」に代わり想像力を働かせると、

「そんな運転をしていたら危ないよ。」
「あなただって、ただじゃ済まないかもしれない。」
「次は事故につながるかもしれないからいいにくいけれど、『ばかやろう!』とだけは言わしてね。」
「きっと、この『ばかやろう!』は、あなたのためになるから。」

みたいな意味合いが込められていると想像します。

さて、ここからが問題。

とっても相手を慮って発された「ばかやろう!」を投げかけられた相手は、どのような反応をするでしょう。

もちろん、ここに正解はありませんから、二択にしてみましょうか。

①「申し訳ありません。私の運転は間違っていました。」
②「うるせぇな!」

さて、どちらの受け取り方になると思いますか。

繰り返しになりますが、ここに正解はありません。

大切なのは、「『ばかやろう!』を発した運転手は、①と②のどちらを想定しているのか?」ということ。

きっと、多くの「ばかやろう運転手」は、①をイメージしてしまっているのではないでしょうか。

少なくとも②の反応をねらってはいないと思うのです。

ここが大いなる勘違いの出発地点。

ぼくたち人間は、「正しいことを正しく主張すれば相手は分かってくれる」と思っている。

もっと言えば、「自分が絶対に正しいから、ちょっと手荒く扱っても、相手は反省してくれる」と思っている。

しかし、人間は思っている以上に感情の生き物。

「確かに正しいけれど、その言い方はないでしょ!」
「正論で威張ってんじゃねぇ!」

みたいな、もはや「正しいとか関係ないね。」という状態になってしまうこともあるのです。

そうなってしまう大きな理由は、「自分が正しいという絶対的な上から目線」

時として大切なのは、「相手も感情をもった人間である」という基本的な理解なのです。

▼まとめ

本記事では、「ぼくたちって当たり前のことも忘れちゃうときがあるよね」という内容をまとめました。

「分かってはいるんだけど…」という気持ちで、間違った選択を取ってしまうのがある意味人間らしさなのかもしれません。

大切なことは、自分だって選択ミスをするんだから、相手のミスだって認めてあげようよってこと。

もちろん、全てのミスを許容するのではありません。

「ミスったごめん。」で済まない場面もありますからね。

ただ、「正しいことを伝えたんだから、相手は反省するはず」とかいう台本通りの相手の反応は、多分に「自分の願望」にまみれているかもしれないことは忘れずにいたいものです。

📘参考文献
#知ってるつもり
#わかりあえないを越える

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