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君のために豆を挽く

コーヒーミルを買った。

ミルを買う、というのはひとつの勇気で、「豆を挽く生活に突入すること」を意味する。
鮮度が大切なコーヒー豆。
「挽いてある豆と、挽いていない豆」を併用することは難しい。
どちらも使えるコーヒーメーカーというものは存在しているけれど、我が家のペーパードリップのみ。

豆は、挽くか挽かぬかの二択であり
コーヒーミルを買ったということは、少なくとも「今回買った1,5kgのコーヒー豆を使い切るまでは、豆を挽く暮らしをする」という覚悟である。

もちろん、最初から覚悟があったわけではないので、KALDIで200gの豆を買った。
レジで、「豆のままで」と言ったときの、高揚と不安、そして誇らしさ。

この200gで、豆挽き生活に慣れ、いつもの1,5kgを購入した。

もちろん、豆は挽かないほうがラクだし、味の違いがどんだけわかるか今のところは不明だし、
「お湯沸かしてるうちに、豆を挽けばいーや」と思っていたけれど、600mlのコーヒーを作るために約40gの豆が必要で、ミルは3回稼働させなきゃいけなくて、お湯はそのあいだ”とっくに”沸いてしまうので、思惑とは少し違うところもあるけれど。

わたしは、今日も豆を挽いている。


最近、家族が仕事に行くとき、コーヒーを持って出るようになった。
スターバックスのグランデサイズ(約470ml)
わたしはこれを、ほとんど毎朝用意する。

毎日コーヒーを淹れるならば、豆は挽かないほうがらくだろう、と言われてみればそうなのだけれど
「毎日飲むのであれば、美味しいほうがいいだろう」と思い至った。
美味しい、あるいは「美味しいとされているほう」でよい。
これは、気分の問題として。


「してもらう」ということが、あまり得意ではなかった。
それは「あまりよくないこと」という教育だった気がする。
家の方針ではなく、時代の方針として。
自分で何でもやりましょう、不得意なことを得意にしましょう、率先して動きましょう。そんな感じだった気がする。
「人への頼り方」を、あまり教わらずに育ったというのは、言い過ぎだろうか。
これでもわたしは、人に頼るのが苦手というほどでもないのだけれど、基本的にはひとりでできるほうが正しい、みたいな。

「ライオンハート」の「そばにいてあげる」という歌詞が、腑に落ちなかった。
そばに、いたいからいるのではないだろうか。
「いてあげる」って、なんだかエラそうだ。と、思っていた。
やりたいことだけやって、自分のことを”きちんと”整えて、誰かにいて”もらわなくても”大丈夫なように。


冷蔵庫の中が満たされている暮らしに、ようやく慣れてきた。
家にいる時間は多くないのに、できるだけキッチンに立って、冷蔵庫の中身を満たしてゆくのが好き。という人と、一緒に暮らしている。
それは彼の趣味のようなものであり、「してあげる」というつもりではないのだろうけれど、わたしがいなければ冷蔵庫を満たしたりはしないだろう。

代わりに、掃除や洗濯はわたしがして、ゴミの日もわたしのほうが覚えていて、できるだけ対等であろうと努めた。
ひとり暮らしが、ふたり暮らしになって、お互いのことは自分でできるふたりなんだから、支え合うも何も、いやいやもともとひとりでできるしね。みたいな、その通りなんだけれど。
独り立ちできるように生きてきたのに、ふたりになってしまっても困る。というような気持ちは、根底にずっとあった気がする。いまもある。


でもいまは、豆を挽く。
君のために、豆を挽く。
山崎まさよしの「パンを焼く」を思い出している。
君のためにパンを、顔中まっしろになりながら。というあの曲を、今でも覚えている。

山崎まさよしの「アレルギーの特効薬」というアルバムは、理想の彼氏像だった。
君のためにパンを焼いて、中華料理を食べて、週末には映画に行くふたりは憧れだったけれど、「君のために」なんて言って、パンを焼いてもらったら疲れちゃうかな。という、冷静なわたしもいた。
そこで「ありがとう」と笑えたら素敵だな、というのも憧れに含まれていたのかもしれない。
「いいよ、いらないよ」って、言っちゃうだろうなあ。実際のわたしは。

だから、料理が嫌いなことは幸いだったかもしれない。
料理も嫌いだし、何を食べるか考えるのも面倒だし、そんなことを考えるのならば食べたくない。
冷蔵庫に食べ物があるという暮らしは、わたしの「食事に対する思考コスト」をごっそりと奪ってくれた。このことに、感謝している。
だから「君のために」も甘んじて受けよう。と、思えるようになってきた。

「何も食べていないと思ったから、作ってきた」と、タッパーを渡されたことは、一度や二度ではない。
「人の作ったものなら食べると思うよ」と、言われていたことがあったらしい。
世の中には、人の握ったおにぎりが食べられない人もいるらしいけれど、わたしは「誰かが作ってくれたものを食べないという罪悪感に耐えられない」というタイプの人間だったらしい。ということも幸いした。
このプロフィールは、わたしをよく知る人に教えてもらって、なるほどな。と思った。

とにかく今日も、冷蔵庫のごはんを食べた。
そしていま、豆を挽いている。


ひとりだったら、挽かなかったろうなあ。と思う。
誰かにおいしいものを食べさせたい
つまりそれは「君のためにパンを焼く」という、その気持ちを、いまようやく、わたしなりに理解しつつある。
豆を挽いて、きちんとした人間のような気持ちで、家の中で役割があって
もうすぐ、からっぽになったタンブラーが帰ってくる。
「明日もコーヒーあるよ」といえば、「ありがとう」と言われ
たまに訝しんで、「明日もコーヒーいる?」と尋ねれば、「いただけるのなら」と謙虚に返ってくるので、まあ悪い気はしない。


「君のために」も、悪くない。
というのは,おとなになったいま、思うことである。



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