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オシャレとキレイ

ガタガタと音がしたので、部屋を出て「おかえり」と声をかけた。
仕事から帰ってきたそのひとは、「ただいま」と言ったあと、数日前から羽織り始めた春コートを脱いだ。

「なんだ、今日パジャマじゃん」
コートの下から出てきたのは、パジャマ用のスウェットで、
これは「元々パジャマとしてこの世に生まれた」ってタイプじゃなくて、「着古してきたのでパジャマになったタイプ」だと思う。
ただ、同居した当時からパジャマ扱いだった気がする。

気に入っているのは知っているけれど、そろそろ捨てたほうがいいかもしれないなァ。と思っていたやつだ。
でもパジャマだし。個人の好みだし、それでもいいかと思って放っておいた。

「けんちゃんは、何歳まで穴の開いたズボンを履くの?」

ずいぶん年上の従兄に、そう尋ねたことがある。
そりゃあ、従兄じゃなかったら不躾にそんなことを聞かなかった。
好きなものを着たらいい、と思う。

けんちゃんは一瞬きょとんとしたあと、へらあっと笑って(だいたい、そういうふうに笑うひとだ)、「似合わなくなるまでかなァ」と言った。

穴の開いたそのズボンと、トゲトゲのベルトは、けんちゃんによく似合っていた。
背も高くてひょろっとしていて、ぜんぜん太っていない。
実年齢より若く見えるタイプっていうか、めちゃくちゃ年齢不詳だ。

よく似合っていたから、平気で尋ねられたんだ。と気づいた。
そしてこの答えは、今でもわたしを勇敢にしてくれる。

30歳になる少し前くらいに、耳のついたフードを被っていたら、当時やってたバンドの同い年のメンバーに「なんだよ」みたいに言われたことを、いまでも覚えている。
彼はオシャレだったから、そういう意味もあったかもしれない。
でもそれは、「もうこんな年なのに恥ずかしねぇのかよ」という温度感のように感じられた。
わたしが気にしていたことだったから、被害妄想かもしれない。

わたしは今でも、モクローのポシェットと、耳のついたフードでそのへんをうろうろしている。
まだちゃんと似合う、と思う。
自意識過剰だと言ってくれても構わないけれど
けんちゃんのトゲトゲと同じように、わたしには耳付きフードがお似合いなのだ。
わたしたちはきっと20歳を過ぎて、自分でいろんなものを選ぶようになってから、そういったたぐいのものが好きで、たまたまそのままおとなになっちゃったタイプなのだ。

もちろん、時と場合はちゃんとわきまえるよ。おとなだからね。

話は少し逸れたけれど何が言いたいかって、基本的には好きなものを着ればいい。と思っている。

でも、好きなものを着ることと、「身なりに気を使うこと」ってちょっと違う。
これが絶妙だと思う。
「面接のとき」とか「冠婚葬祭」は、ルールがあるのである程度従えばいいと思う。
「恋人の両親に会うとき」とか、ちょっと難しいラインだけど、まあきれいめなワンピースとか着ておけば無難でしょう。モクローのポシェットはお休みする。

「はじめての人に会うとき」はどうだろうか。
何か、目上の要素を含む相手だったら、やっぱり気を使うかなァ。
そうじゃないときは、きっとモクローを出勤させる気がする。

でもきっと、NARSのファンデーションを塗る。
このファンデーションのことを、わたしは「コンシーラー」を呼び、シミとか赤みを隠してもらっている。

毛玉のついたカーディガンやタイツは避ける。
首の部分の黄ばみがきになるMA-1も、避けたほうがいいかもしれない。
余裕があるなら、美容院にも行っておきたい(前回の美容院から2ヶ月以上経っている場合に限る
ネイルも気にする。
気にするっていうのは、塗り直すといえばそうなんだけど、「欠けてるネイルを放置しない」というのが大切だ。
ネイルは塗っていないことは悪ではないけれど、ボロボロになったやつを放置しないように気をつけてはいる。ときどき、やっちゃうけど。

できるだけ、まわりの、「きれいだなァ」って思う人を思い浮かべる。
心の中で、真似をする。
似合う似合わないとか、好みの問題じゃなくて、
あの人の礼儀作法のようなものを、真似するようにして、できるだけ一般人に擬態する。

一般人に擬態するということは、不快指数を与える懸念を少なくする。ということである。
あと、周りに迷惑をかけない、とか。
うーん、あんまり言い過ぎると表現が乱暴になっちゃって難しい。

人生に於いて、オシャレになることは諦めている。
というか、いうほど興味がなかった。
たぶんわたしは、買い物が好きなだけなのだと思う。
あと、純粋にかわいいものが好きなので、ZOZOとAmazonとCreemaとminneの定期巡回を怠らない。
お気に入りのページを見て、にやにやしている。
でも、それで充分だった。

友達はよく「今年の流行り」とか、「季節感あるね」って言葉を使うけど、実はどっちも理解できていない。
むかしはそれが恥ずかしかったけど、いまはあまり気にならなかった。
流行りは教えてもらってラッキーだと思うし、季節感は言われて「なるほど!」って思う。
でも、白くて貝殻みたいな色のネイルって、夏は海っぽくて、冬は雪っぽくてよくないか?
前向きすぎる?

でも、なんつーか、こんなわたしでも身なりは整えておきたいなあ、と思う。

どうしてなの 今日にかぎって
安いサンダルをはいてた

松任谷由実 "DESTINY"

まあ、結局これなんだと思う。

わたしは、わたしが可愛いと思うものが好きだ。
可愛くて似合うものを、自画自賛して身につけていくと思う。

わたしはいまでも、パジャマみたいな格好で外を歩く。
プーさんの耳がついたフードを被って、そのへんを歩く。
友達がパジャマにしか着ないと言っていたカービィのスウェットは、わたしのお気に入りだ。
友達と会うときに、よく着ている(わたしの世代なんて、みんなウルトラスーパーデラックスをやって育ったから、カービィを嫌いなわけがない)
でも、着すぎると毛玉になっちゃうから、あんまり着ないようにしている。
ぜんぜん着ないようにすると本末転倒だし、そのへんは難しい。
難しいのだけれど。

今日に限って、安いサンダルを履いてたってならなけりゃあ、それでいいのだと思う。
いやあ、このへんは難しいなァ。
わたしはその毛玉のスウェット、そろそろ捨てたほうがいいと思うけど、お気に入りだから捨てたくないのわかるし、別に穴が空いているわけじゃないし。
でもそれ着て、職場の人とかに会ってほしくないな。
でもまあ、友達が家に来るときなら別に構わないしな。
ていう、そういう線引きって、人それぞれで難しいよなァ。

わたしはわたしで、「今日にかぎって」ってならないように生きていくだけ。
モクローでもカービィでも、自信を持って身につけたい。

こうやって、「わたしはわたしで」って解決するのって、いいことなのか悪いことなのか。
最近は、そんなことも考えてしまう。
なんとなく自分の中で順序立てて考えて納得する術を持っていることは良いことではあるけど、完結しきっちゃったらよくない。こともある気がする。
そういえば、家族には最近訊ねてなかったけど、耳付きの帽子を被るときは、相手を選ぶ。
微妙だなって相手のときは「耳つけてとなり歩いていい?」って聞くようにして、「いいよ」って言わせるようにーーーしていたなァ。

いやはや、やはりこういう好みとか感覚って難しい。
相容れないこともある。
見た目より中身のほうが大事だとはいうけれど、見た目が大事じゃないってワケじゃなくて。

年相応、という言葉もあるけれど、相応っていうならば、穴開きもトゲトゲもモクローもカービィも卒業しなければいけなくて
じゃあ、何歳までならいいの?って質問もバカらしい。
バカらしいことは嫌いだ。
「似合わなくなるまで」って、なかなかわかりやすくていいと思う。
それって、「自分で身につけてテンションが上がると思える瞬間が続くまで」ってことだから。

それでいうならば、わたしの中の「年相応」っていうのが、コギレイにすること。かもしれない。
まあいつもコギレイにしているかって、まったくそうじゃないけれど。
会社に行くときは、最低限お茶出しができる雰囲気を醸し出して
人と会うときは、不穏な空気にならないように。
なったとしても「これ好きなんですえへへ」って笑えて
うん、汚くない感じが良いな。第一印象に於ける信用みたいなものを、損なわない選択をしたいなぁ。
などと思うのである。

静岡の言葉でいうと、コギレイの逆みたいなことをね、「ぶしょったい」っていうのね。
ぶしょったくない感じにしたいんだよね。

ムズイ





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