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「一人の時間も大切なんです」を人嫌いだと誤解された話

「私には、一人で読書をしたり、ただぼーっとしたりして過ごす、
 一人の時間も大切なんです。」

会社の上司に、私はかつてそう言った。

すると約一ヶ月後、再び上司と話をしていた時、

「あなたが前に『人が嫌い』って言っていたことが気になっていて・・・」
と言われた。


「え???」(当時の私の頭の中)


綺麗な誤解だった。
私は一言も「人が嫌い」だとは言っていないし、実際人が嫌いなわけではない。

ていうか「人」ってなんだ。全人類ってことか。括りがちょっと大き過ぎやしないか。

私は、多くの人が参加するイベントなど、社交のような交流を多く求められる場にいると心身疲れてしまう。

だが人が嫌いなわけではなくて、

大人数より、少人数で(むしろ1対1とか)、
じっくりその相手のことを知っていったり、
自分との共通点や違いを面白がるような関わり方を好む、というだけだ。

私にはそういう考えを理解してくれる、というか同じような考えを持った家族や友人が何人もいたし、

そういう考えをしない人にこのことを伝えたとしても、
自然に理解してもらえるものだと思っていた。

だって、わいわい話すのが好きで、
大勢の人と関わり合うことでエネルギーを得る人は、
ただ自分とは違う特性を持っているに過ぎないと考えているから。


でも、上記のようなことをできる限り丁寧に言語化して伝えても、
上司には伝わらなかったみたいだ。

ついには、「大勢の中で過ごすことに慣れていかなきゃいけない」
と言われてしまった。


人嫌いと勘違いされ、
「大勢の中より、一人や少人数で過ごす時間の方が落ち着く」
という特性まで否定されたように感じ、

私は割とショックを受けた。


私には、好きな人もいるし、そこまで深く印象に残っていない人もいるし、苦手な人もいる。

きっとそれは、多くの人にとって同じことじゃないかと思う。


コミュニケーションスタイルの違い。
また、何にストレスを感じ、何によってリフレッシュできるかの違い。

それらは違いにしか過ぎなくて、それぞれが特性を活かして生きていけたならとても素敵だと、強く思う。

でも、今回は「違い」と受け止めてもらえず、「能力の差」のように捉えられてしまった。

会社の方針などもあるから、ある程度は仕方ないのかもしれない。

それでも、私は悲しかったし、

同じ国に住んでいて、同じ言語を使っていても、
その基盤になる考え方が違えば、
話は途端に通じなくなってしまうということに気がついた。


ちなみに私は、
「一人や少人数で過ごすことを好み、相手を深く知ることに喜びを見出す」という特性を変えるつもりはない。

というか、大きくは変えられないものだと思っているし、
変える必要性も感じていない。

この特性を活かせる環境を探して、分かり合おうとしあえる人を探して。

もし幸運にも見つけられたなら、
丁寧に大事にしていこう、と思っている。

お読みいただき、ありがとうございました。

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