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自虐について

自虐。
改めて見ると、すごい字面だ。

自らを、虐めると書く。

私はなるべくゆるく心地良く生きていけたらな、と思っているので、
自虐はしないように心がけている。

なぜそれがゆるく心地良い生き方に繋がると考えているのか、綴ってみたい。

自虐には、自分のコンプレックスを他者から指摘される前に自分から言うことで、
自らを一時的に防御できる効果があると思う。

しかし、それはあくまで一時的な話で、

いつしか自分のコンプレックスは「話のネタとして軽くいじっていいもの」と認識されるようになり、
ますます話題に上りやすくなってしまうこともあるのではないだろうか。

そして何より、自分が少しずつ消耗していく。

自分の言葉で、他人の言葉で、
自らが傷ついていく。

その傷はかさぶたになりきる前に、またすぐに傷つけられることだろう。

それは言うまでもなく、とても辛い。

あともう一つ、大事な視点だなと思うこと。

それは、自虐は他者をも傷つけるおそれがある、ということだ。

荻上チキさんがエッセイにて、こう述べている。

「自分なんて」と謙遜や自虐を重ねると、聞かされるほうは、その水準に達するのが当然と思い込まされ、ひいては社会の採点基準も厳しくしてしまうのだと。

荻上チキ、ヨシタケシンスケ
『みらいめがね②苦手科目は「人生」です』p.95

その通りだ、と思う。

例えば、ある女性が、仕事を頑張っていると褒められたとする。

その返答として、
「私は恋人がいないから、仕事くらい頑張らないとやばいですよ」
と返す。

この発言は、女性にとっては褒められて恥ずかしいのをごまかすための、単なる謙遜なのかもしれない。

でも、聞く側にとっては、
・恋人がいないことは問題なのか
・恋人がいない人は仕事に精を出して当然なのか
・恋人も仕事もない自分はどうなるのか
など、様々な「採点基準」を考えさせられる発言になり得る。

上のように問いとして考えられる心の余裕があればまだいいが、
発言を「規範」としてそのまま受け取ってしまい、
自分を「何もできない」と責めてしまう人も中にはいるだろう。

だから、謙遜(特に過剰なもの)や自虐は、自分も他人も息苦しくさせてしまうと思う。

なるべく縛るものの少ない世の中で、
それぞれがそれぞれ繋がったりして生きていけたらいいのにね、と願う。

お読みいただき、ありがとうございます。