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愛しのめがね。

私は強めの近視であるため、普段はめがねを着けている。

コンタクトにするのは、基本的に友人に会ったりする時のみで、
それ以外の時間はめがねと共にある生活だ。

めがね。

人によって、様々なイメージを持たれている存在だろう。

めがねを掛けている人は、なんだか垢抜けない印象がある?

はたまた、お洒落アイテムとして欠かせない?

あなたにとって、めがねとはどんな存在なのだろう。


私にとって、めがねは、色々な意味で「愛おしい」存在である。

なぜそう感じるのか、これまでを振り返りつつ考えてみたい。


嬉し恥ずかし、めがねを初めて着けた記憶

あれは確か、小学校中学年の頃だった。

ゲームと勉強、絵を描くこと、そして恐らく最大の要因としての風格を感じる「遺伝」によって、私は年々着実に視力が低下していった。

黒板の字も、目を細めて見えるか見えないか。

そんな私である、めがねと出会わないはずがなかった。

選んだのは、ピンクがかった細いリム。記念すべきファーストめがねである。

それを着けた私は、おののいた。

「目を・・・細める必要がない!!!」

めがねの効果と存在意義を存分に実感した。


ただ、クラスメイトに冷やかされるのではないかとの恥ずかしさもあり、
めがねとのファーストコンタクトから中学生までの間、
私は基本的に授業中のみめがねを使用していた。

めがねケースからそっと取り出し、掛ける。

ただそれだけの行為なのだが、少しのドキドキ感と特別感を覚えながら、
授業ごとに着けては外し、着けては外ししていたあの頃を思い出す。

そう、私とめがねは、「嬉し恥ずかし」という表現がよく似合う感情と共に、思春期の私と深く繋がっているのだ。


人と会う時にはめがねを掛けなくなった、それでも、いやだからこそ・・・

高校では運動部に所属していたこともあり、コンタクトの方が便利だと感じるようになった。
そのため、学校のある日はコンタクトを着用するように。

また、この頃に私は(度付き)めがねの持つ特性を改めて理解した。

それはご承知の通り、「目が小さく見える」ということである。

特に私の場合は度が強かったので、実際の目のサイズより大分小さくなる。

今はそれはそれでめがねの持つ愛嬌である感を抱いているが、
とりわけ高校生の頃はメイクも禁止だったため、
マイナス要素に感じていた。

そのため、休日に友人と会う時にはコンタクトを着用することがほとんどだった。

こう書くと、めがねと私との関係性は薄れたかのように感じられるかもしれない。

その答えは、否である。

むしろコンタクトを多く着けるようになって、私はめがねの持つ魅力に改めて気がついた。

というのは、

学校で過ごしたり、休日友人と過ごしたりする時間の私は、
自然と多少の「オン」モードになっている。

しかし。

帰宅し、コンタクトを外し、めがねを着ける。

その何たる開放感、安心感たるや。

「あぁ~、家に帰ってきたあ。くつろぐぞー。」
という「オフ」モードにめがね着用と共に移行することができるのである。

これがめがねのとても愛しいところだ。
鏡に映るいつもより多少小さくなった目も、なんだか「オフ」感を後押ししてくれているように感じられる。

そう、私にとってめがねは、「素の自分」と強く結びついた存在なのだ。


メイクを覚えた私とめがねの今

そして今。
高校時代とは違い、大学時代を経て、メイクは割かし自然にできるようになった。

現在の私は、めがねを三本持っている。

それぞれニュアンスが異なるめがねだ。

今は必ずしも人と会う時にコンタクトを着けるということはなくなった。
家でも外でも、めがねで過ごす時間が増えた。

アイシャドウの色とめがねの色の組み合わせを楽しんだり、
気分によってめがね自体を変えたりすることで、

めがねは自分らしさを表現するアイテムにもなると知り始めた。

まだまだファッションとしてのめがねについては研究途中だが、
顔の印象を大きく変えるめがねは、とても面白いと思う。


自己表現の楽しさを増やしてくれる、めがね。
家でのリラックスタイムと共にある、めがね。

もはや私はめがね、と意味不明なことを書きそうになる(実際書いた)くらい、
私はめがねのことを大事に思っている。

コンタクトも便利に使っていくけれど、
めがねよ、これからも、私と共に人生を歩んでいってください。


お読みいただき、ありがとうございました。