仕事と天職…そして現実

 保育の仕事が好きだ。子どもと関わり、親と関わり、個々の喜怒哀楽を受け止めながら日々格闘し、健全な心身を育む手助けをしながらその成長を見守る。上手く付き合っていくために脳を酷使することで共に学び、その工夫によって保育者自身も成長を促される。努力はそのまま、信頼と愛着という双方の関係に究極の形として反映される。子どもが好きでも、ただ一緒に遊んでいればいい仕事ではなく、実は肉体労働でとても大変である。それでも遣り甲斐に不足はない。「私の天職!」胸を張って言えた。
 
 子育て支援の仕事が好きだ。人見知りの私にとって、最初、現場は厳し過ぎた。それでも人と関わることを好きになれたのは、支援を求める人が私を成長させたからだ。私に居場所を作り、私がその人達の助けになれることを教えてくれた。私が人の役に立て、また会いたい、また話したい…と言ってもらえることを教えてくれた。
 保育の仕事でも、支援の仕事でも、近年、私…対こども又は保護者という形で、嫌な思いをさせられたことはなかった。
 
 発達支援の仕事がしたかった。昔、一ヶ月だけ携わったことがあり、私に『とても楽しい』という記憶しか残さなかったせいだ。フォローを要する子に対するあらゆる手立てや工夫に触れることは、大きな刺激となった。保育士に限らず、心理士という別の職業がチームに加わることで、新たな目線や別の知識の介入が見られ、常に〝目から鱗〟がこぼれた。
 
 保育、子育て支援、発達支援…。この三つを経験すれば、私の保育士としての当面の目標は達成される予定であった。保育士として〝色んなことが出来る〟人でありたいという向上心の目指すところが、その三つを経験することで達成される…そう考えていた。
 しかし、三つ目へのチャンスが、目の前で途絶えた。計画失敗。私は機会に受け入れられず、保育士として別のジャンルの仕事を提示された。
 収入は激減。常に何かのフォローに徹し、したい仕事のやり方や良いと思える考えを出す場所は奪われる。
 自分が好きな〝保育士〟という仕事は否定され、必要とされていないことを知った。それは私が〝いらない保育士〟なのだと言われた気がした。
 私は自分に、この職業はとても向いていると思っていた。遣り甲斐を感じ、続けていく上で、一生それで生きていたいと思うだけの確信さえ芽生え始めていた。
 しかし今、私が保育士として求めてもらえる現場に、遣り甲斐や天職としての魅力を感じられる場所はない。私がしたい〝保育士〟という仕事が出来る場所に、私は要らないのである。
 では私を必要としてくれる現場で、私が遣り甲斐を感じ、一生続けて行きたい天職として働けるかといえば、それはNOである。
 
 今この国では、保育所不足、保育士不足が叫ばれて久しい。少子化が進み、子どもの全体数自体は減少しているにも関わらず、親の就業を始めとした〝保育に欠ける〟子どもや、核家族化が進む中で〝支援を必要とする〟保護者が増えているのは現実で、待機児童問題はなかなか解決に向かわない。
しかし実際、本当にそうだろうか。
 保育士養成学校が全国に数少ないわけでは決してない。そこを目指す人も、資格を所得して卒業する人の数にしても同じである。一方で、無資格でも一定期間保育業務に携わってきた経験者や、幼稚園教諭免許所持者対し、国家資格としての保育士資格の所得に際した、一部試験の免除措置が取られる等、保育士不足解消に向けた緩和は行われている。実際、資格所得のための垣根は随分低くなっているのだ。
 では何故、未だに保育士が不足しているのか…。思うにそれは、保育士という仕事を続けて行くことが難しいからである。といえば相反する意見が上がることは目に見えているので、あくまで私の個人的見解であると書き添えたい。
 保育の現場は過酷である。国家資格を要する専門職でありながら、ハローワーク等で出されている求人情報をざっと見回しただけでも、月給で雇われるところは一割にも満たない。時給制のアルバイトなどであれば、資格不要の一般的なアルバイトの最低賃金と変わらないものが大半である。しかし勤務時間となれば、少なくとも三段階以上の変則勤務が殆どで、休日も固定でなく、週休二日が保障されていることさえ稀である。
 そんな労働条件の中で、保育士という職業に求められる役割は年々増えている。ある人によると、保育士という仕事が兼任するものを他の職業に当て嵌めれば、30は下らないという。
 例えば、子ども同士が喧嘩をしたとして、それに際し、保育士がどうあるべきかと考えた場合、ただ止めに入れば良いというわけではない。状況に応じて、公平に仲裁しなければならない裁判官であったり、保護し、守ることを優先とする弁護士となる必要も出て来る。同時に、受け止めるべき母親でいる必要もあれば、指導監督する教師でなければならないこともある。万が一、怪我が生ずれは、看護師として適切な対処を迫られる可能性も無視出来ない。
〝子どもの喧嘩〟という例ひとつあげても、既に五つの役割が挙げられ、考えようによっては、更に増えることになる。実際、保育士は喧嘩の対処だけしていれば良いわけではなく、子どもの健全な心身の成長のためには、生活全般に関してそれ以上の役割が生ずるのは目に見えている。食事の際には給仕となり、環境整備として掃除婦となることもある。子どもの社会という一見狭小な世界に在っても、未成熟でありながら人という存在感を持ってそこに生きる集団を前に、それを育み、時に統率していくことは決して易しいものではない。
 又、子どもの年齢が上がるにつれ、生活援助のスキルと入れ代わるように、教育的指導を要する機会が増えることから、広い目で見れば、〝子どもに関わる〟という部分に焦点を絞ったところで、成長発達の著しい幼年期の変化を踏まえれば、〝子ども〟という存在自体が幅広く、多岐に渡るのである。其々の年齢に即して保育士の役割も恒常的に変化し、また、成長発達だけを見ても個人差があることから、必ずしも十把一絡げというわけにはいかない。其々の様子に応じて保育士が成すべきことも変わって来るのである。
それに加え、核家族化が進む中での子育て家庭の増加により、保護者支援という大役が圧し掛かる。子どもの保育のみならず、親をも育てて行く…というのが、保育士の仕事の一環として〝専門職として当然の役割〟だと、お偉方はお尻を叩く。自ら着手するわけではない人の言うことは、時に無責任である。それがいかに大変なことか、言う側には解らないからだ。
 更に、この仕事は親であれ子であれ、人と対することが必須である。其々感情を持つ生き物であることから、保護者とのトラブルというストレスが発生するのも珍しいことではない。
 未だに「子どもと遊ぶのが仕事…楽でいいね」と言う人がいるのに驚かされるのは、世間が余りにその現実を知らないことに驚くせいでもある。
 また、男女雇用機会均等法が制定されて久しいとはいえ、保育業界はまだまだ圧倒的に女性の世界である。現段階で中途半端とはいえ、人生の大半を女性社会で暮らして来た私でさえ、近年はその難しさを痛感する場面が増えている。保育士や看護師という仕事を生業としている女性は、総じて〝気がキツイ〟というのが内輪での合言葉になっているほどで、逆に、そうでないとやっていけない…というのもその背景である。
 ある心優しい友人が、現場を去る折、言った言葉が耳に残る。
「保育士さんって意地悪や。私にはもう、これ以上無理」
 私は彼女にそう思わせるだけの場面を再々見て来た上、自身も同じ体験をした記憶があり、その言葉を否定することも、違う側面に肯定点を見出し慰めることすら出来なかった。
 子を守り、育て、保護者の相談に親身に応じて親育てをも担う立場である保育士が〝意地悪〟とは…。それは現場で働く保育者に限ったことではなく、全体を指揮指導し、牽引して行くべき上の立場の人間がそうであったりする場合も少なくない。そんな上司の下で、部下が賢く育つのだとしたら、それはそれで凄い職場だと思うが、今のところ私の知る範囲で、そんな現場に巡り逢ったことは一度もない。大人になるとは一体どういうことなのだろうと、いつも本気で頭を抱える。
 保育の現場で長く働き続けられる人がいるとしたら、その人は色んな意味で〝とても強い〟人なのだと私は思う。さもなければその職場が、私の想像を超えるような素晴らしい場所であるか…。それには勿論、満足出来るだけの安定した待遇や福利厚生などといった側面でも言えることである。あとは、その人が神によって選ばれ、保育士としての仕事を本当の天職として全うする為の機会が与えられると同時に、常に必要とされる現場に恵まれ、活躍できる場所に事欠かないかであろう。いずれでもないのなら、それとは決して、私には判らない理由である。
 私は保育士という仕事をやめるつもりでいる。向いていると思えるし、天職に出来ると胸を張れる。遣り甲斐を感じると共に愛してやまない仕事であることは偽りのない真実である。
 しかし、私が求める現場が無いだけでなく、私を求める現場が無いのである。その時点でもう、この職業は私の仕事として成り立たなくなる。どんなに嘆き悲しんでも、それが現実であり、事実だ。
 恐らく、何らかの形で続けることを選んだところで、私は同じ壁にぶち当たり、同じ悩みを繰り返すことになるであろう。拘りを捨てられないのは自分の否以外何ものでもないのだろうが、唯頑固であるわけではなく、自分なりに持っている理由が、必ずしも否だと思えない部分があるせいだ。私は愛するが故に曲げられないという、確固たる信念をこの仕事に持っているが、それが世間一般の業界において受け入れられ易いかといえば、そうではない。成長することが難しいという思いは、私に〝未練〟というものを忘れさせた。新しい一歩のための決断は、必ずしも不幸ではなく、私にとっては前向きな思考で、まさに心機一転なのである。
 低賃金、過酷労働、人間不和…VS子ども好き、遣り甲斐…。その心は、〝自己犠牲の精神〟である。
 潜在保育士の存在を意識しながら、それを現場という土俵に上げることが出来ないのは、社会が保育士職という仕事の従事者に対し、〝自己犠牲の精神〟を発揮させようという甘えがあるせいだと考える。福祉の心へと訴えることは、その価値と待遇とを結びつける損得勘定を愚弄しているに過ぎない。保育士が皆、ナイチンゲールではないし、聖母マリアではない。保育士も肉体を持った人間であり、その多くは女性である。激務に生活の大半を持って行かれ、残るものも少なければ、前途に明るい未来さえ見出せない。結婚し、子どもを持つことが難しい職業でもあるのは、将来を見据えた出会いの機会も時間も少ないのが、理由のひとつでもある。
 また、結婚・出産により、同じ職場で働き続けることが難しいのも特徴と言える。そう書けば必ず、「そんなところばかりじゃない」と言い出す人がいるであろうが、確かに、そんなところばかりではない。それはどの業界も同じだろう。では「そんなところばかりじゃない」ところとは何処に在るのか…。そういう場所は大抵、働き手に困らないことから、人手に不足が無いのであり、そもそも社会問題とは無縁で生き残れていくのである。

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