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ヨミマシタホン No.12

『金閣寺』三島由紀夫 (新潮社:新版発行 令和二年 670円+tax)

自身で決めている「名作いつかは読もうぜシリ〜ズ」の中の一冊であった。やっと読んだ、感が強い。もっと短い話と勝手に思い込んでいた。幸田露伴の「五重塔」と勘違いしていたようだ。(こっちはまだ未読)

新潮社の令和版の装丁はオシャレになっていた。カバーは明るいオレンジ色で、そこに金色の文字でタイトルと作家名。英語でも表記されている。

期待と軽い不安が入り混じる中でページを開いた。

思ったより読みやすかった。しかし時代背景が戦中〜戦後すぐの昭和で、主人公がその時代の学僧、という設定の世界に入り込むまでに少し時間がかかった。

それと多くのシーンに散見される、三島文学を特徴づけていると思われる美文…が、ときにくどくやたらと長い。理解しようとガンバるのだが、意識が遠のいてしまうことも多かった。やれやれ。

そんな美文たちの中、生き物好きなので蜜蜂を描写しているシーンが印象に残った。少し長いがその一部を引用する。

” 私は蜂の目になって見ようとした。菊は一点の瑕瑾かきんもない黄いろい端正な花弁をひろげていた。それは正に小さな金閣のように美しく、金閣のように完全だったが、決して金閣に変貌することはなく、夏菊の花の一輪にとどまっていた。そうだ、それは確乎たる菊、一個の花、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまっていた。それはこのように存在の節度を保つことにより、溢れるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望にふさわしいものになっていた。形のない、飛翔し、流れ、力動する欲望の前に、こうして対象としての形態に身をひそめて息づいていることは、何という神秘だろう! 形態は徐々に希薄になり、破られそうになり、おののきふるえている。それもその筈、菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞって作られたものであり、その美しさ自体が、予感に向って花ひらいたものなのだから、今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。・・・”

まだまだ続くが、これだけでも十分にそれを味わえるのではないだろうか。


三島由紀夫の人生の閉じ方があまりにも強烈なので、読む前は物語は耽美主義的で救いのないモノと勝手にイメージしていたら全く違った。

最後の一文に拍子抜けした。いや、肩透かしを食った、と言った方がいいだろうか。

金閣寺を燃やしてはダメだが、ヒトに迷惑をかけるくらいはいいかもしれない。不器用でもいい、ということだ。と解釈した。希望を感じた。


💙💛


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