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私が出来上がるまで(命を捨てかけた)38

そんな兄は人とうまくやっていきにくい人だったのか、いえ、結構社交的でした。
家でもお笑いが大好きで、面白いことばかりして私を笑わせていました。
そう言うところで学生時代友達もいたのだと思います。
が、長続きしないのは、兄のわがままで自分しか見えていないところだと思います。
それと、大人になって社会に出て、人とうまく接せられないように見えました。
スーパーマーケットで勤めても、周りにすぐに可愛がられます。
けれど、兄は誰にも心を開きません。
行くのがすぐに嫌になり、朝起きなくなります。

ドーベルマンを飼いだしてからは散歩でドーベルマン仲間ができます。
全く付き合うのが苦手というわけではないのです。
きっと一見人懐こく見えるので、人が寄ってきて友達はすぐできる方だと思います。
そして兄はこのドーベルマンを飼ったのがきっかけで、警察犬の訓練士を目指すことになったのです。

ニートで、油断すれば家のものを質屋に入れてしまう疫病神となった兄をなんとか自立して欲しい、仕事をして欲しいと母と願っていたので、警察犬訓練士は住み込みになるので万々歳でした。
この頃、この兄の奇行に耐えられず、そして、兄の私に対する暴力にも耐えかねて、私は兄には「縁を切る」と言い放っていました。
本当にただの喧嘩ではなく、距離を置くことを決断したのです。
私が16〜17歳くらいでした。

いつからでしょう、私が小学校に上がるくらいからでしょうか。
しょっちゅう喧嘩をし、5年も上で男で、しかも腕力の強い兄に取っ組み合いをして勝てるはずがありません。
それに、私は小さい頃から超女の子っぽい性質があったので、人を殴ったり叩いたりなど絶対したくないのです。
出来ないのです。
殆ど無抵抗で叩かれたり、髪を掴んで引きずられていました。
叩かれたり髪を引っ張り続けられると耐性ができてきます。
痛いのですが、無感情になり痛くないと思い込ませるのです。
よく子供の頃親から虐待されて二重人格になると聞きますが、その気持ちがよくわかります。
しかし、私はそこまではいかず、人格はひとりのままです。
ただ、逃し方を覚えないと泣いても許してもらえない、誰も助けてはくれないのです。

一度、一度だけ、たった一度、突発的に自殺を考えました。
父のところへ行きたいと。
こんな生活は地獄です。
まだ高校に上がる前くらいだったと思います。
1番多感な時です。
母も仕事を持ち、生活するだけで必死だったのでしょう。
元々子供に関心もなかったのもあり、いない時に兄に虐待されているなどそこまで酷いとかは想像してないと思います。
そんな無関心な母に対しても恨みを持ちました。

この生活から抜け出したい。
けど、1人で生きてなどいけません。
将来が見えなくなってきた時、母が仕事に出たらガス栓をひねってお昼寝しよう。
苦しまずに父のところへ行ける。
そう決めました。
逃げたかった。
この生活から。

しかし、その日母は会社が休みだったのです。
ランダムなのでいつ休みか知らなかった。
それだけ母は子供と会話しないのです。
それで死ぬことは諦めました。
嫌っている母に命を救われたのです。
もちろん母はそんなこと知る由もありませんが。
それ以降はそんなことは考えたことはないです。

母の親戚たちとも母のイジメのことから縁を切って、まるで天涯孤独のような思いでした。
頼る大人はもういないのです。
自分で考え、自分で道を決め、自分で選ばないといけないのです。
父を亡くして12歳13歳14歳15歳と自分の人生を考えていました。
私はどんどん強くなっていきました。
暴力を振るう兄と決別することも私の自立への第一歩でした。

中学時代、家庭がこうやって崩壊してるなど、いつも爆笑している私を見て、想像した生徒は1人もいません。
父は亡くしたものの、家もあり貧しくもなく、幸せそうに映っていたようでした。
親しい友達には漏らしたことはあっても、私はこの地獄の家から天国の外へ飛び出して、謳歌していました。
これも私に死を2度と選ばせない一つになったと思います。

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