短編小説 会社を休んで本屋に行く

その日、小山はものすごく会社に行きたくなかった。
会社に行きたくないのはいつもの事なのだが、その日は、前の日に気づいてしまった、顧客にプレゼンした資料のミスを報告しなければならず、上司に激怒される事が確実だった。
小山の勤めているのは小さな商社で、小山はそこで営業をやっていたが、この仕事は小山に全く合っていなかった。
小山は大学では文学部で、英文学を専攻しており、英語ができるという事で、海外事業も展開している小さな専門商社に新卒で入社し、なぜか営業部に配属された。だが、元来一人で本を読むのが好きな内向的な性格である小山は、この商社の営業という、高いコミュニケーションスキルが必要な仕事が全く合っていなかった。
上司には怒られ、商品の売り手と買い手の板挟みになり、毎日本当に会社に行きたくないと思いながら、体を引きづるように無理やり会社に行っていた。
そしてこの日、その気持ちが臨界点に達した。
電車には乗ったものの、途中で会社に行きたくない気持ちが限界突破し、会社のある新宿で降りれずに、通り過ぎてしまった。
もうすぐ、会社の始業時間になってしまう。
小山は会社に電話して、体調不良で休む旨を伝えた。

さぼっちまった・・・。
ちょっとの罪悪感と、会社に行かなくていい開放感を感じながら、さあ、それで、今日はどうしよう、と考えた。

ふと、このまま電車に乗って、埼玉まで行ってしまおう、と思い立った。

小山の趣味は読書と、休日に本屋めぐりをする事であった。
最近は、独立系書店と呼ばれる、店主のこだわりの選書が置かれる本屋が増えており、そういった本屋を訪ねる事と、本を読む事だけが、小山の楽しみになっていた。

埼玉の北本という駅に、はなび書房という小さな本屋がある。
今度の休みに行こうと思っていた本屋だったが、この際、今日行ってしまおう。
そう思って、電車に乗って北本へ向かった。

北本駅に着き、駅を出た。

空が青い。
小山は、スマホでマップを見ながら、はなび書房の方に歩いて行った。

はなび書房は、駅から歩いて5分程の所にあった。
小さいが、雰囲気のいい本屋である。
扉を開けて、中に入った。

「いらっしゃい」
迎えてくれたのは、白い髭を生やした、品のいい初老の男性だった。
「こんにちは」
「今日は、いい天気だね」
「そうですね」
何気ないやりとりだったが、こんなやりとりでも小山には嬉しかった。
普段は、上司には怒られ、顧客からは無理な注文を言われる事しか人と会話する事がなく、こう言った何気ないやりとりでも、小山の心に沁みるものがあった。

本を見ていると、
「コーヒーはお好きですか?」
と聞かれた。
「好きです」
「そうですか。こちらでは、無料でお出ししているんです」
そう言われると、紙コップに入ったコーヒーを出してくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「どこからいらっしゃったのかな?」
「あの、多摩川から・・・」
「そうですか。それは遠くからいらっしゃいましたねえ」
「・・・」
「仕事の途中に寄って下さったのかな?」
小山はスーツを着ていた。
「いや・・・実は・・・」
「・・・」
「今日、会社にものすごく行きたくなくて・・・さぼっちゃったんです・・・」
「ほっほっほっ。それはいけませんねえ」
と言って、店主は笑ってくれた。
「私も、会社勤めをしていた頃は、毎日仕事に行くのがいやでねえ」
「そんな時、体調を崩して一か月程入院しなければならなくなってねえ。それで、どうせ一度きりの人生、自分の好きな事をして、死にたいと思って、脱サラして本屋を始めたんですよ」
「・・・」
「稼ぎはかなり減って、生活していくのにやっとですが、毎日楽しいですよ。あなたにも、そんなものがあればいいんだけどねえ」
「そうですね・・・」
「あなたに、おすすめの本があります」
そう言って店主が出してくれたのは、色川武大の「うらおもて人生録」だった。
「わたしも、会社員時代、この本に救われました。よかったら読んでみて下さい」

小山は、「うらおもて人生録」を買って、礼を言って店を出た。

帰りの電車の中で、今後の人生について考えた。
とりあえず、しばらくは会社勤めを続けよう。
でも、その間に、自分の本当にやりたい事を見つけよう。
本が好きだから、本に関わる仕事がいいかもしれない。
そんな事を考えながら、小山は電車に揺られて帰って行った。







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