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【エッセイ】「軽蔑」を神聖視する僕たち

「軽蔑」も、「嫌悪」と同じように、なにかしら後ろ向きな感情が作用して、そこから生まれた行為、もしくは発展した感情であることは、間違いないのだけれども、それでも僕は、その二つの感情のあいだには、とてつもなく大きな隔たりがあると思っている。
「嫌悪」というのは、ある種、対等な存在に対して向けるものであり、どちらかと言えば、自分と同じくらいの力、もしくは相手がそれ以上の力を持っていて、自分ではどうにも打開のしようがない状態のときに抱くことが多い。イメージとしては力関係の近い同級生や同期とのあいだで起きたいざこざから発展した感情みたいな感じ。
ただ、一方で「軽蔑」というのは、相手のことを、自分よりも下に見るような感情が強い。イメージとしては後輩だったり、自分よりも立場の弱いクラスメイトだったりに対して向ける失望感がこれに近い。
もちろん、このふたつの感情を明確に定義づけし、綺麗に分割してしまえるほど、人間の感情というのは単純明快ではないけれども、それでも、他人をどんな見方で見ているか、その点において、この二つには、はっきりとした違いがあると言える。
つまりなにが言いたいのかというと、僕たちが他人を軽蔑するとき、それがたとえ無意識的であろうが意識的であろうが、基本的に、他人のことを見下してかかっているということだ。相手を対等に見ていることなんてほとんどありえない。そしてそこからひとつ、はっきりと言えることは、僕たちがいくら、純粋に、芯からの軽蔑の念を相手に対して抱いていたとしても、その瞬間、同時に僕たちは、ある種の快楽を確かに享受しているということだ。それは、その他人よりも人間として優れていると思うことで得られる種類の快感で、それは多くの人間を虜にする。あたかも神になったかのように錯覚させ、態度を余分に尊大化させ、そして、おおよその人間は、その感情、快楽から逃れられない。ただそれでも、この世界のすべての競争は、こういう当たり前の感情、心理から成り立っているし、独裁者が生まれるのも、序列が生まれるのも、いい会社に入る人がいてひどい会社に入る人がいるのも、いい学校に入る人がいてひどい学校に入る人がいるのも、、、と、それは例を挙げればきりがないけれど、すべては人間のそういう感情などを礎に形成されている。
そして、そこからかなり話は飛んでしまうのだけれど、そういう感情、ある種の傲慢さがあるからこそ、生まれてくる物語のキャラクターがというものがある。
僕たちは漫画でも小説でもドラマでも映画でも、圧倒的な強者に憧れる傾向にある。弱い立場にある主人公に共感することはあっても、憧れることはそこまで多くはない。貧相な境遇に置かれている主人公がいたとして、そしてそこからさまざまな仲間とともに乗り越えていく物語があったとして、そういった境遇や変化、環境、キャラクターへの憧れは、確かに憧れと言えなくないけれど、畏敬の念という意味では断じてない。けれども一方で、圧倒的な強者に対しては、なかば崇拝するような、そしてその凛々しさにうっとりとするような、そういう種類の憧れを抱く。もしくは読者である自分の、物語外の現状を棚に上げて、自分もそのキャラクターのように超人的な力に目覚めたのではないかと錯覚させるような、そういった魔力がある。そして、そういった物語上の強者が、弱者をものともせず毅然として、格の違いを見せつけるべくバラエティに富んだ強い言葉を発するとき、真に魅力的なキャラクターが完成する。そして逆に言えば、そういったキャラクターが真に魅力的なのは、僕たちが心の底で、絶えず誰かの上に立ちたいと思っていて、そして、併せて言うならば、他人を「軽蔑」して生きていきたいと思っているからだ。
そうして、僕たちは、おおよそ物語上の登場人物にはなりえないけれど、物語の影響で(あるいは相互作用的な影響で)後天的に生まれた憧れも、発展した承認欲求も、人の上に立ちたいという欲求も、誰かを軽蔑することで簡易的に再現している。そうすることが一番簡単で、手の届く行為だからだ。そして常識人を装いながら、僕たちは、きっと心のどこかでそういった軽蔑することそのものを神聖視している。純粋になにかに憧れていたことを忘れてしまった後で。



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