【短編小説】方眼と夏

 何の変哲もない街灯さえも、夜にはやわらかく、そして優しく見える。空にうずまる星も、白く透き通るみたいな三日月も、よくよく見てみると、どれひとつとして煌びやかなものなんかじゃなく、ぜんぶがぜんぶ、もとあった輪郭を失くしたように、ぼんやりそこに佇んでいる。遥か昔、絵を描く時間に、クラスメイト数十人の集合写真を模した絵を書こうとしたとき、そこにいるひとたちがぜんぶ同じに見えたのを思い出した。絵具の黒に吸い込まれてしまったように、最後にはみんなの面影さえもなくなってしまったのを思い出した。いま感じていることはたぶんあのときの感覚に少し似ていて、きっと、夜は一面黒色だから、あえて輪郭線は書かなくても問題ないのだと、わたしたちの遥か上の空にいる神様がそう思ったんだろうなと、特に根拠があるわけではないけれども、そんな考えが頭によぎったのだった。そしてあらためて、画力のない神様、手先の不器用な神様、わたしはそんなことを少し想像してみて、けれどもその数秒後には、そんな想像が、とてつもなく取るに足らないどうでもいいことのように思えてきて、わたしはただ、目の前に広がる風景に対して、見え過ぎなくていいな、と思った。藻で覆いつくされた池の水さえも、透き通っているように見えること、わたし以外の誰かがどこかで忙しなく動き回っているのを、ただただ自然に見なくて済むこと、綺麗でないもの、見たくないもの、そのすべてを覆い隠してくれること、この世界中で、夜だけはきっと、停滞していて、どこにも行かないことを肯定してくれるんだと思う。だって、夜はこんなにも時間がゆったり流れているから。
 溜息のように吐いた息が、あっという間に大気のなかで白く染まった。気づかずにずっとベランダの手摺を握りしめていた自分の指が、かたく凍ってしまったみたいに悴んでいた。わたしは震えながら、着ていた部屋着のパーカーのポケットにさっと手を突っ込んだ。そのとき、わたしの後ろでガラス戸の開く音がした。
「紅茶、飲む?」
彼女はそう言いながらベランダに出てきて、ふたつ持っていたマグカップのうちのひとつを、わたしに手渡した。わたしは「ありがとう」と言いながらそれを受け取って、両手で暖をとるようにそのマグカップをぎゅっとにぎった。その瞬間、錠剤が体内でだんだんと溶けていくみたいに、その温度が身体を少しずつ満たしていって、寒さで固まりかけていた手指の血管も、激しく脈打ちはじめたのが分かった。ああ、わたしはやっぱり、まだこの世界で確かに生きていて、それで、寒いだけじゃ死ねないんだなと、わけも分からずそんな突拍子もないことを思った。
 そして、今さっきまで彼女がいた部屋を振り返って見てみると、この一年間で彼女が使ってきた教科書が、ひとつの束になって積み上げられていて、緑色のスズランテープで縛られているのが見えた。そして、その真横には、つい昨日まで使われていたであろう単語帳や、付箋のついた参考書も、教科書と同じように束になって縛り上げられていて、また、少し前まで散らかっていたはずの彼女の机も、知らないうちに綺麗になっていた。ベランダから見える彼女の部屋は、数時間前とはなにもかも変わってしまったように見えて、どうしてかは分からないけれど、わたしはそんな光景をじっと見ているのが辛くなった。そこから早々に目を逸らしてしまいたくなって、わたしは、なかば逃げ場を見つけるかのように、隣にいる彼女のほうに目を向けた。
 彼女は、真っ黒に広がる冬の夜空に見惚れるように、けれどもその実なんにも見えてなんかいないかのように、じっと空を眺めていた。彼女の目に本当はなにが映っているのか分からない。いつしか彼女が笑っていたときの様子を思い出そうとするけれど、その目もなんだかブラックホールみたい。今まで、彼女が笑うことなんて珍しくなかったはずなのに、その顔さえも靄がかかったみたいに思い出せない。隣にいるはずなのに、彼女の笑った顔が想像できない。わたしは、真っ白な彼女の横顔を、紅茶を啜りながら、ただただ見ていることしかできない。


「高校生活ももう終わりだね。」
彼女はまったくこっちに向くことなく、なんだか空に喋りかけるかのようにそう言った。そして当のわたしも、真上に広がる空をなんの意味もなくただ見上げていて、それからなにか特別なことを言うわけでもなく、ただ「うん」とだけ言ってうなずいた。
 そうして、それからの彼女は、どこかはるか遠く、それは、この世のすべてのものを駆使しても見えないくらいはるか遠く、この星でないなにか、そんなものを見つめるみたいに言葉をさぐっていて、そしてぽつぽつと言葉を組み立てていくようにそのまま続けた。
「入学式したのも、もう三年前ってことだよね。早いなあ。あっという間だなあ。いやもちろんね、そんなことは絶対ありえないんだけどさ、どうしてか、わたしだけはこれからもずっと高校生のままなんじゃないかって、今までそう思ってたんだ。わたしだけ、全宇宙のなかでひとりだけ、ずっと高校生、高校生という名を冠した固有の生物みたいな、そういうものなんじゃないかって、どうしてもそんな風に思えてしょうがなかった。けどさ、もうあと一か月も経てば卒業するんだね、わたしたち。なんだかやっぱり信じられないっていうか、実感ないよね。」
わたしはただただうなずきながら、彼女の話を聞いていた。いや、本当は、ただただ聞いているふりをしていただけだった。彼女が発する言葉じたいに思うことなんて、わたしのなかにはひとつもなくて、彼女のその言葉のすべてが、降り注ぐ粉雪みたいに一瞬だけ舞っては消えてしまうようなものに思えてしょうがなかった。まあきっと、彼女もそんなことは分かっているのだろうけれど。
 そして彼女は、頭のなかから引っ張り出してきた思い出をそのまま口にする。
「・・・と初めて会ったのも一年生のときだもんね。ほら、わたしたち同じクラスだったし、席も前後ですぐ近くだったから。ってことはもう会ってから三年くらい経つんだね。すごいなあ。最初になにを喋ったかなんて、もうはっきりとは覚えてなんかないけどさ、でも、びっくりするぐらいすぐに仲良くなったよね、わたしたち。性格も、趣味もさ、もちろん、似てるところはあるけど、当たり前みたいに違ってることの方が多くて、だから今思えば仲良くなれたのもすごく不思議だった。けどそれから、入ろうとしてる部活まで同じだってことを知ったときはびっくりしたな。それで、なんとなくだけど、・・・とはこれからも長い付き合いになりそうだなって思った。」
そう言われてわたしは、元から決まっていた仕草をそのまま諳んじるかのように、恥ずかしがった様子を取り繕いながら、遠慮がちに首を振った。そして「やめてよ、恥ずかしい」と付け加えるように呟いた。けれども本当は、そのときのわたしに、少しも恥ずかしい気持ちなんかなくて、むしろ、透き通るような彼女の横顔を見ているだけで、今にも泣いてしまいそうになるのだった。
 ただそれでも、こんな簡単に、作りたくもない表情を取り繕えてしまうこと、ありきたりな文句をすらすら言えてしまうこと、わたしはそんなことを思うたびに、わたしそのものがだんだん分からなくなってきてしまって、なんだか拍子抜けした。そして、形があったはずの感情というものがばらばら散らばってしまったかのように、わけもなく面白く思えてしまって、そんな悲しいのか面白いのか分からない、おいまぜになったような感覚のなか、わたしは、ひとりでに自嘲するみたいな笑い声をあげた。けれども彼女は、特にそのことには気が付いていなかった。
「それで、部活だよ。懐かしいな。まだ引退して一年も経ってないのに、こんな風に言うのはおかしいかもしれないけど、でも、実際懐かしいんだよね。この感覚は、他の言葉じゃ言い表せないよ。だってさ、あらためて思い返してみても、あの頃って今とは違いすぎるもん。どこかふわふわしてて、現実味がないっていうかさ。考えられないよ。よくあんなこと毎日してたなって思う。」
「まあね、確かに」
わたしは惰性みたいに相槌を打つ。
「当たり前だけど、すごく厳しかったでしょ?中学校のときとは比べ物にならないくらい、先輩も先生も厳しかったし、練習でも試合でも、それ以外の礼儀に対してもすごく厳しかった。みんながみんな本気で、なにかを射止めて殺すかのような鋭い顔をしてて、怖くて、部活に行きたくない日ばっかりだった。毎日怒られて、走らされて、二年生と三年生の雑用して。でも・・・だけは二年生と三年生に混じって、実践練習やったり、試合に出たりしててさ、なんだかすごく悔しかった。わたしたちはあのとき、本当は悔しがれないくらいの実力しかなかったのに、でも、それでも悔しくてしょうがなかった。・・・が羨ましくてしょうがなかった。けど・・・はそのぶん、三年生と二年生の期待を裏切らないように、ずっとずっと頑張ってたんだよね。今ならなんとなくだけど、そのことが分かる気がする。」
彼女がそんな風に言って、わたしもまた、頭のなかにある言葉を、ひとつひとつ組み立てていくみたいに答える。
「いや、運がよかっただけだよ。三年生と二年生が、ただ運よくわたしの持ち味を認めてくれただけ。わたし以外にも周りには、うまいひとなんてたくさんいたからさ。」
彼女は、さっきのわたしみたいに、首を振る。
「いや、今、冷静になって考えてみるとさ、・・・の実力は、一年生のなかで頭ひとつ抜けてたんだなって思うよ。お世辞とかじゃなくて本当に。持ってたものは、絶対に運まかせのものなんかじゃないし、最初、監督や上級生に評価されたのがさ、たとえ運だったとしても、そのチャンスをちゃんとものに出来たのは・・・の実力だよ。」
彼女はそう言いながら、早々に飲み終えてしまった紅茶のマグカップを、ベランダにある椅子の上に置いた。そして、また手摺に腕をあずけるようにしながら続けた。
「でも、最後にはふたり揃ってレギュラーになれた。一年生、二年生のときはさ、練習が辛かったり、試合でも思うように結果が出なくて、先生に怒られたりさ、辛いことも多かったけど、三年生になってからは、ようやくやってきたことが身に付いたなっていう実感が出てきて、それで、ふたり揃って試合に出れて、やっぱりよかったなあ。最後の試合は負けちゃったけどさ、ふたりとも精一杯やった、全力でやったよ。けどさ、なんでだろうね、入学したのはほんの数日前のこととしか思えないのに、最後の大会の日だけは何十年も前みたいに思えるのは。よくわからない、よくわからないけどさ、あの日のことだけは、ずっとずっと何十年後も忘れないような気がする。」
ぽつぽつと喋る彼女は、確かに今も隣にいて、わたしに語りかけているはずなのに、そんな彼女がわたしには、なんだかまっくらな蜃気楼かのように思えた。ブラックホールを模した黒い渦かのように思えた。わたしには、彼女の浮かべる表情がうまく想像できなかった。彼女のことを、頭のなかで思い起こそうとすればするほど、早く激しく吸い込まれていくように、どこかに消えていってしまうのだった。
「あとさ、この三年間で、いっぱい遊んだよね。・・・がさ、勧めてくれた漫画、あれ何だっけ、題名忘れちゃったけど、すごくおもしろかったな、あれまた読みたいな。小説もさ、わたしは小説なんて普段読まないんだけど、・・・が勧めてくれたのだけは面白くて最後まで読んじゃったな。なんだっけ、あれ?あの本も思い出せないな、題名が。まあでも、明日になったらたぶん思い出せるだろうし、いいかな。あ、でも、わたしにはひとつだけ不満があって、それは、・・・がわたしの勧めた漫画はぜったい読んでくれないこと。」
わたしはむりやり笑顔を作りだし、彼女と一緒になって笑おうとしたのだけれども、うまく笑えなかった。笑おうとして出た自分の乾いた声だけが、たいして響き渡ることなく夜空に溶けていった。わたしは、どんな顔をしていればいいのか、そんなことすらも分からないまま、彼女の方を見ていた。
「でもさ、お互いの家に行って、学校のこととか、部活のこととか、クラスのこととか、好きな先生のこととか、嫌いな先生のこととか、好きな人のこととか喋ってさ、嫌いな人のこととか喋ってさ、やっぱり楽しかったよね。趣味とかはさ、そこまで合わないけど、好きな先生とか嫌いな先生とかだけは必ず一緒なんだよね、わたしたち。そうそう、そう言えば、結構前にさ、○○くんたちと一緒にカラオケとボウリングに行ったよね、覚えてる。」
わたしはうなずく。そして「覚えてるよ」とだけ言った。
「あのときは楽しかったなあ、○○くんってさ、あんなにいつもは凛として、クールな感じなのに、歌うのは実は苦手だし、ボウリングも苦手で、どこか少し抜けてたりして、どうしてなんだろうね。部活のときとかはすごくテキパキしてて、自分のプレーに自信を持ってるように見えるのに、なんていうか、ギャップがあってすごくて面白かったし、他の人も、クラスにいるときとはぜんぜん違う一面があったりして、そう言えば・・・もあのときカラオケ歌うの初めてだったよね、・・・はカラオケじたい初めてなのに、歌もうまくて、びっくりした。なんだか、あの日ぐらい、みんなの印象変わった日ってなかったな。また、みんなで行きたいよね、カラオケもさ、ボウリングもさ、二十になったらお酒だって、一緒に行きたいなあ、もっといろんなことがしたいなあ。けどさ、やっぱり大学に入ったら、みんなみんな大学で友達作って、連絡取り合うこともなくなって、最後には会わなくなっちゃうのかな。でも、そういうのってさ、なんか悲しいよね。」
彼女はそう言って下を向く。そしてわたしは、その言葉に対して、慰めるようなことをこれから口にする。けれどもそれは、本当のところ、彼女にもわたしにも、なんの役割を持たないただの音でしかなくて、誰の傷も癒えないような、形を持っただけの慰めの言葉で、それでも、わたしはそれらしく星の綺麗さに見惚れたような仕草をしながら、口を開く。
「行こうよ、また一緒に行こう。○○くんも誘ってさ、今度は他のクラスメイトとかも一緒にさ。絶対楽しくなると思うよ。それで、今度は一緒に旅行に行ったりとかさ、今までできなかったこともたくさんしようよ。大学生になってからもさ、わたしたち、きっと長い付き合いになるよ。」
わたしがそう言うと、彼女は大きく息を吐くように夜空を見上げた。そして「そうだね」と言って笑った。横顔だけだから分からないけれど、その仕草はたぶん笑っていたように思う。彼女の吐息が、彼女のすぐ近くの空気を白く染め上げて、わたしは、それで気が付く、今が夏なんかじゃないこと、夏はもう終わってしまったこと。そういう話、そういう脚本、そういう筋書きの物語。
 幕が閉じる合図みたいに、風が吹きぬける。それは、すべての風景を一瞬にして塗り替えてしまうような風。いっしょに、彼女の長い黒髪がゆらゆら揺れていた。
 そして彼女は、まさに、あらかじめ決められていたかのように、今までほとんど見ることがなかったわたしのほうに向きなおった。それから、薄明りみたいに透き通った笑顔を浮かべた。それはきっと、わたしたちだけが知っているものに対する笑顔で、その後、彼女は「ふふっ」と取ってつけたような笑い声をあげて、こう言った。
「なんだか、思ってたよりも自然にできるものだね、わたしも、あなたも。」
彼女はなかば吐き捨てるみたいにそう言って、でも、わたしだけは、その言葉が彼女のせいいっぱいの強がりであることを知っていて、だからわたしは、自分でも気が付かないうちに、持っていたマグカップを強く握りしめていた。いや、きっと本当はわたしじゃなくても、彼女が強がっていることくらい、なんとなく分かってしまうのだろう。そして、彼女が、自分自身を全力で肯定したかった、そういう骸であること、そういう夏の骸であること、この空間には、わたしと彼女しかいないはずなのに、この宇宙のぜんぶが、彼女の小さな強がりをあますことなく知ってしまっているような気がして、わたしはわけもなく崩れ落ちてしまいそうになり、そして、紅茶の熱で温まっていたはずの手指は、ふたたび凍り付いたように冷たくなり始めていた。
 改めて、わたしたちの発していた言葉すべてが無意味に思えて、けれども、もとから意味のある言葉なんてないのだと思いなおして、いや、そう思いこむほかなくて、だからこそ、きっとわたしたちはずっと冬のなかにいるのだ、と思った。
「もしかしたら、ほかの人の夏も同じで、ぜんぶぜんぶ偽物だったのかもしれないね。この宇宙ぜんぶのものたち、例外なく、ぜんぶぜんぶ、みせかけのつくりものだったのかもしれない。」
わたしたちの夏はずっと、誰かから報らされるまでもなく、原稿用紙のなかにしかなかった。

 
 クラスの誰も知らないだろうけれど、きっとわたしだけは、彼女が誰よりもまっすぐな瞳を持っているのを知っている。茶色く透き通った綺麗な瞳で、わたしのことを見通すあの表情を知っている。彼女の控えめに笑うあの顔を知っている。そう思っていた。
 わたしたちふたりとも、クラスメイトから名前も覚えてもらえないような存在だけれど、わたしとは違って、本当の彼女はとても冷静で、つねに周囲を広く見ていて、普段は外側に出さないなにかを、いつも自分の内側で研いでいる、ずっとそんな予感があった。そして彼女は、雲間に隠れた月のような抽象性を常に醸し出していて、わたしには、彼女のそんな特徴さえもとても魅力的に映っていた。それで、わたしたちは、まるですべてが既定路線であったかのように、お互いの家を行き来するようになっていた。そこで特別なにかを喋るわけではなかったけれど、それでも多くの時間をお互いの家で一緒に過ごした。出席番号三十九番、四十番、きっとまるごと机がなくなってしまっても誰にも気づかれないだろうけど、あのときのわたしたちは、確かに高校一年生だったのだ。あのときのわたしには、そんな自覚さえもなかったのだけれど。
 あのとき、わたしたちがお互いの家に行ってしたことと言えば、ほとんど勉強だけだった。学校で起こった出来事を話すこともなかったし、そういったことを話すような前触れや雰囲気もまったくなかった。好きな人の話も、嫌いな人の話も、まるでぜんぶ忘れ去られてしまったかのように、まったく話すことはなくて、それでもお互いの趣味の話を気まぐれですることはあった。とはいっても、そんなこともかなり稀なことで、だから、そのあいだわたしがすることはと言えば、彼女が勉強している姿を、ただ少し離れたところから見ているか、一緒になって勉強するかのどちらかぐらいのものだった。
 けれどもわたしは、彼女が勉強する姿を、ただなにをするでもなく見ているのが好きだった。彼女のノートが彼女の答えで埋まっていく、その様子がなんだか分からないけれど、わたしの心にある歪だとか汚れだとかを綺麗に取り払ってくれるような気がして、いつまででもその様子を見ていられた。どうしてかはその当時のわたしにはよく分からなかったけれど、今ならばはっきりと分かる。綺麗なものを通して綺麗なものを見ること、それがどうしようもなくそのときのわたしには必要だったのだ。それはきっと、澄んだ群青の空を通して、遠くの星を眺め、自分の感情をそこに投影することに似ている。だからわたしは、彼女が勉強しているあいだ、何時間もずっとその様子を見ているときもあった。
 そしてある日、唐突にこんな風に訊ねたのだった。
「どうしてそんなにいつも勉強してるの?」
けれども、そのときのわたしにとっては、そんなこと自体、たいして興味もないことだった。彼女がなんのために勉強していようが、どんな志を持っていようが、それはたいした問題ではなく、わたしのその言葉は、ただわたしたちの空間を繋ぎとめるために発せられただけのものだった。でも、それでもやっぱり訊ねたということは、ずっと勉強している彼女のことをどこか不思議に思っていたのかもしれない。
 ただ、彼女は詳しいことなどひとつも言わずに、ただ「生きてるってことを、知るためだよ」と答えた。
「それは、生きることに、勉強がどんな風に結びついてるのかを知るってこと?それとも、生きるために直接必要だから勉強してるってこと?たとえば、なにか将来役立つ分野があるからとか。」
わたしはそんな風に訊ねてみたけれど、すぐに彼女は首を振った。そして「違うよ」と短く答えた。それから自分の発言を少し補足するように付け加えた。
「べつになんでもいいの。勉強でも、食べることでも、遊ぶことでも、なんでも。それはね、一種の存在証明みたいなものなの。」
そのときわたしが首をかしげるような仕草をしていたからだろう。彼女はそれから、少しだけ長い話を始めた。
「これは、昔住んでた家の近所の子のことなんだけれど、その子は今考えてみても、周りとは違う、変わった特徴を持った子だったの。母親同士、仲が良かったから、そのよしみでよくその子の部屋に遊びに行ったりしてたんだけれど、いつ行っても、その子の部屋には大量のお菓子が置いてあった。
 それで、その子はいつも、部屋に来たわたしになんて気が付かないくらい、お菓子を食べることに夢中になってるの。わたしがひさしぶりとかおはようとか、なにか適当なことを言いだして、やっとわたしの存在に気が付くみたいな。でもべつに気が付いても、特にわたしに話しかけてくるわけでもなくて、それからもずっとおんなじようにお菓子を食べ続けてた。それは初めて会ったときも、二回目に会ったときも、三回目に会ったときも、それより後もずっと一緒だった。いつ来ても、その子がお菓子を咀嚼する音だけ、部屋のなかには響き渡ってて、でもそれはぜんぜんつまみ食いとかそういう程度のものなんかじゃないの。その子はお菓子を食べながらね、ずっと険しい顔をしてて、なんだか、なにか見えない敵と戦ってるみたいだった。わたしには見えていない恐るべき存在が、きっとその子には見えてるんだって思った。でも、そのときのわたしには、その子がどうしてそんなことをするのかが純粋に分からなかったの。食べたくないなら食べなければいいって単純にそう思ってたから。それで、ある日訊いてみたの。
『お菓子が好きなの?』
『いや、ぜんぜん』
その子はさも当たり前みたいに、すぐそう答えた。それで、いつもいつも、吐くまで食べ続けてた。吐瀉物で部屋は埋め尽くされて、わたしまで気持ち悪くなるくらいのにおいがいつも漂ってた。それで、余計にわけが分からなくなって、わたしがどうしてそんなことするの?って素直に訊いてみると、その子はこう答えたの。
『食べ物がわたしを創ってるんだよ。身体のなかに食べ物を入れるとね、心臓がいつもよりずっとずっとはやく動き出して、それで、からだをめぐる血管が一気に膨張して、全身から血の流れる感触がする。そうして、ああ、わたしはまだ生きてるんだって分かるの。食べることはね、つまり、生きることなの。生きることそのものなの。食べ続けているあいだはわたしたち、生きていられるんだよ、だからさ、食べなきゃ。』って。わたしが言いたいのはたぶん、そういう種類のことなんだと思う。」
彼女はそんな風に、普段の様子からは考えられないくらい細かで込み入ったことをわたしに向かって話した。けれども、わたしには彼女が話したことの意図がよく分からなかった。ただそのときは、話されたことの密度にただ圧倒されたように「その子はどうなったの?」と訊ねていた。
「水銀灯を噛み砕いて、死んだ。」
そう答えた彼女は、蛍光灯しかない天井を意味もなくぼんやりと見つめていた。そしてわたしは、そんな彼女のことをただただじっと見ていた。今まで信じていたものが一瞬にして崩れてしまうような、そんな予感が、わたしのなかではぐるぐる渦巻いていて、ひとつもその明確な理由は分からないのに、わたしはそのとき、ただただ怖くてしょうがなかった。
 ふと視線を向けた窓の外に、近所の高校生たちが楽しそうに話している様子が見えた。彼らのにぎやかな笑い声が、閉め切られた窓をもってしても、ここまで確かに届いてきていた。わたしは、楽しそうだなあ、と意味もないことを考えて、けれども、そのままずっと窓の外を見ているうちに、その高校生たちもいつの間にかいなくなっていて、それで、知らないうちに、今さっき彼女が話したことも、それについての得体の知れない不安も、わたしの頭のなかから消えていた。そして数時間後、わたしはいつもと変わらない目で彼女のことを見ている。
 ああ、星だったら、あれだけ仰々しいものを掲げながら見ていても、誰も咎めたりなんかしないのにな、わたしはそんなことを思いながらずっと彼女のことを見ている。気持ち悪いかな、けれどあなたはきっと星、ただ単にみんなが認めてないだけで、その光がただ見えにくいだけで、確かに輝いている星。きっとあのときのわたしは、彼女のことを、これ以上ないくらい信仰していたのだ。

 べつに、彼女のことを誰かに悪く言われたって平気だった。周りの誰かが、嘲るような声と一緒に、いつも彼女のことを笑っていること、そんなことは、周りが隠しているつもりでも、わたしにはぜんぶ分かっていたし、そういった雰囲気をわたしはつぶさに感じ取っていた。けれども、それでも止めようなんて微塵も思わなかったし、怒りなんてほとんど湧いてこなかった。ただ、呆れるみたいに周囲のことを見ているだけだった。本当は、悪意なんてどこにもないように思えた。単に、なんにも見えていないだけなんだ、ここにいるわたし以外のひとたち。朝教室にやってきたとき、彼女の机だけ廊下に出されていたこと、彼女のロッカーの中身が知らないうちに空っぽになっていたこと、それらの出来事も、ただ本当に、みんな彼女のことが見えていなくて起こった出来事なんじゃないかと思えた。見えていないからこそ、分からないからこそ、人はなにかに対して冷たい態度が取れるわけで、そして、たとえわたし以外のひとたちに彼女のことが見えていなかったとしても、そんなことはわたしにとってとてつもなくどうでもいいことだった。わたしだけでも、彼女のことが見えていれば、ただそれで充分だった。
 だから、彼女がなにかクラスメイトに嫌がらせを受けているときも、わたしが特別手を差し伸べたりすることはなかった。もちろんわたしが周りに与えられる力なんて、ほとんど皆無に等しかったと言うのもあるけれど、そもそも周囲に対して彼女に対する仕打ちを止めて欲しいと思ったことはなかった。そして、彼女も特にそのことで文句を言ってきたりすることはなく、彼女は周りの仕打ちをすべて甘んじて受け入れていた。苦しいと誰かに訴えることもなく、どこを見ているのか分からない目と、なにを考えているのか分からないその姿で、ただその場に佇んでいた。彼女とそれ以外、彼女だけは何物も混じり合わないということ、それだけをそのあいだは信じていられた。それなのに、それなのに。わたしは彼女の机からあるものを見つけてしまったのだ。
 それはすでに三年生の十月に差し掛かったときのことだった。誰もいない放課後の教室に忘れ物を取りに来たわたしは、ふと彼女の机が気になってそのなかを覗いてしまったのだった。そこには、彼女が普段勉強するのに使っている問題集が一冊だけ忘れ去られたように置かれているのが見えて、そしてその問題集のあいだには、二枚の折りたたまれた原稿用紙が挟まっていた。なかを覗いてみると、そこには力強く整った、けれどもどこか行き場を失ったかのような文字がずらずらと並んでいた。そこに並んでいるのは確かに彼女の字で、けれども同時にどこか他人が書いた文字みたいに思えて、わたしはなかば混乱したようにその詩を読み進めていった。

「王国

どれだけ正しく嫌いと言えるか、そのことにすべてが賭かっていた、夏。教室は夏みたいで、夏は青春みたいだ、なんてきっと、ぜんぶぜんぶ忘れているだけだよ。あのとき、あの子もあの子も、すぐ近くにいるのにまるで地平線の先にいるみたいだった。すぐ近くにいて、声もすぐ近くで聞こえているはずなのに、それは熱で膨張して浮かび上がったみたいで、その熱でわたしものぼせてしまったみたいに、ずっとひとごとだった。本当に同じ教室にいたんだってどうしても思えない。答案用紙の右端に書かれた点数は、もう覚えてなんかいないし、国語の教科書の物語のラストシーンも、数学の方程式の解法も、黒板に書かれた文字と一緒に消えちゃったんだと思う、でもそれよりもっと大事な青春のひとときをわたしは過ごしたんだよって知らない誰かに言ってみたかった人生。誰にも嫌われたくなかったし、全員から愛されたかったよ、わたしは。あのときみんなは、わたしじゃなくて、わたしの奥の誰かに向かって笑いかけていた気がする。」

方眼のなかに収められた文字のひとつひとつが声を荒げながら呻いているように思えて、その文章をただ読んでいるだけでも勝手に胸が締め付けられ、読み終わった後のわたしは、ほとんど反射的にその原稿用紙を破り捨てていた。怒りなのか悲しみなのかよく分からない感情が、沸騰するかのように一気にこみ上げてきて、気づいたら頬に熱い涙が伝っていた。最初からなんとなく分かっていたことなのかもしれないけれど、それでもどうしてもそのことを認めたくなくて、わたしは、誰もいない教室で呻き声を上げるように泣きながら、その場で蹲っていた。
 気が付くと、頭上から彼女がわたしを見下ろしている。秋の夕景で今にも消えてしまいそうな彼女が、更に消えてしまいそうな声で呟くのだ。
「ああ、もう高校生も終わりだね。あと半年もない。もう冬がやって来る。」
そして、そう言った後で、少しだけ自嘲するように笑う。
「夏なんてやって来ないのかもしれないね、わたしたちには。だってそんなのひとつも記憶がないんだもの。だから、ぜんぶぜんぶ偽物。」
彼女は決して星なんかじゃなかった。


「ぜんぶ偽物。そうぜんぶ偽物なんだ、」
自分にそう言い聞かせるように何度も何度もそんな風に呟く。かと思ったら思わず口にしてしまったかのように「って素直に思えたらよかったのにね。」と付け加えた。強がっていたはずの彼女の口から、そんな言葉がこぼれ落ちて、そしてわたしは、その言葉に対してなにも言えないまま、ただ彼女のことを見ている。
 教室で彼女の創った詩を読んで以来、わたしは彼女の部屋にもいくつか彼女の創作物と思しきものを見つけた。そこには本当に数多の種類の創作物が、隠されるかのように埋もれていた。絵、詩、小説、せりふだけが延々と羅列されているもの。そのどれもが、彼女の満たされなさを切に表現していて、わたしはそのときもまた同じようにひとりで泣いてしまった。
 さっき白々しく口にした偽物の思い出が、夜をたたえて、さらに、なにもない空虚なものに思えた。
「ああ、好きだったな、○○くん」
そう唐突に彼女が言って、わたしは少しだけ驚いたように彼女のことを見つめる。
「好き、好きだったよ。悲しい、悲しいな、ずっとずっと遠くから見つめてただけで、今、その顔をはっきりと思い出すことはできないし、ただの憧れでしかなかったけれど。ああでもなんだか、わたしはこの瞬間綺麗に死ねる気がする。好きだった人、恋してた人、それを忘れてほかの人を好きになる瞬間、わたしはそのたびに死んで、また他の人を好きになって、そうして何回も死ねたらいい、それで、一回でも夏がやってくればいい。」
彼女はそう言うけれど、わたしにはきっと夏なんてやって来ない。彼女が誰かを好きになって、そのたびに死んでも、わたしは、わたしのなかの彼女しか愛することが出来なくて、だから、いくら彼女が変わっても、わたしの夏は原稿用紙のなかにある。
 やっぱり、ずっと夜のままだったらいいな。停滞したまま、すべてを覆い隠してほしい、綺麗でないもののすべてを、なかったことにしてほしい。それで、だからこそ、隣にいる彼女が星に願いを捧げているように見えるのも、きっとただの気のせいだ。
 やっぱり、彼女はずっとずっと星。いくら変わってもきらきら輝くもの。わたしの星は今年の春、大学生になります。

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