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深い思考、浅い思考

皆さんは日々深い思考できているだろうか。
僕はそこまでできていない気がしている。
というのも、現代社会は情報過多、テレビやSNSによる情報は深い情報は少なく、浅い表面的な情報で溢れかえっている気がする。
ニュースに関しても、〜でどんな事件が起こった。という概略にとどまり、その背景、捜査の過程、証拠の取得方法、犯人の様子など個別具体的な点については述べられておらず、ここでどういう出来事があった。などと15秒くらいで簡潔に述べて終わりだ。
そして、そのような簡略なニュースが世の中に溢れかえっている。
これはニュースだけの話ではなく、Xなどで書き込まれる情報はその典型だ。
youtubeについても本を紹介する動画などがあるが、あくまでも本のエッセンスをその人なりにまとめ、経験を付加して述べることにとどまり、深い情報もあればその本をなぞるような情報にとどまる。

そのような現代社会のメディアに囲まれているときに、深い情報にもっといえば深い思考をできている人はどれほどいるだろうか。僕自身、一つの問いについて、徹底的に考え尽くすということなかなかできていないように感じる。
一つのことを考えているときに、別のことが頭をよぎり、その点について考えているときにまた別のことが頭を駆け巡り、その点を考える。
そうしているうちに、当初の問題を深くまで検討できていないことに気がつく。
これを雑念が多く、集中できていないと済ますのか、では深い思考をするにはどうすればいいのかということを考えるのかでは大きく異なる。

結論をいうと、深い思考はやはり本など作者が一定の労力を書けて動画などでは簡単に伝えきれないものが深い情報であり、深い思考の産物であるといえるだろう。
大学の授業などで教授が話すことについて学生は聞き流していたり、一回聞いて終わりで復習することをしない人が多い気がする。僕自身もそうだった。しかし、よく考えてみると教授になるような人がその人の仕事として検討してきたそれなりに深い思考がレジュメや講義としてまとまっているということはどれだけ深い思考だろうか。
修士や博士にいっていない学生から見ると教授の話はかなり深い思考・理論・分析に基づいて展開されているといえるのに、一回聞いて理解してものになったような気がしているのはなぜだろうか。
世間でありきたりなありきたりの話を友達とするために大学へ行くのだろうか。
会社に行っても当たり前の用意された回答を話し合うだけで本当にいいのだろうか。
角度を変えてみると、本などはある問いに対して作者がそれなりの時間を書けて分析しているものであり、そこには深い思考が含まれている。そうした本質的な価値のあるものが本当の意味での深い思考であり、深い情報であるように感じる。

以前、成田悠輔さんが、雑談をテレビで垂れ流すと100万人の人が聞いてくれる。論文を書くと100人が聞いてくれるという旨のことを呟いていた。
これは、やはり簡単なものだとみんながわかるから雑談は多くの人が聞いてくれる。しかし、論文という難しく本質的で深い情報は少数の人しか聞いたりしない。もちろん、経済学で難しい話を聞く気になれないという気持ちはわかるが、興味のある分野の深い情報は自ら取りにいくべきではないだろうか。

ネットでありふれている表面的で表層的な話を聞いて世間の一般解を求めるのではなく、ここにしかない情報やいまだ誰もが考えたことのないような理論を求めて日々思考を巡らせたり、研究に打ち込んでこそ道が開けるのではないかと思う。

なぜか、熱くなってしまったが、これは自分に対しても言い聞かせているものである。
きつい時や何も考えたくない時などは僕もyoutubeとかの安易な情報やショート動画などをみてしまったりする。しかし、そこで立ち止まって深い思考の方へ舵を切る回数を増やしていくことが本質的で価値のあるものを掴むためには必要なのかもしれない。

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