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老い

「本人たちが困っていないんだったらそれでいいんじゃないかな」

訪問に同行していた先輩が交差点を大きく左折しながら答えてくれた。訪問看護に転職し先輩看護師といくつかのお宅へ伺うようになって3ヶ月を過ぎても、あたしは病院で染みついた「老い」への嫌悪感を拭い去りたい一念で、玄関先のチャイムを鳴らしていた。


訪問看護は、在宅で看護が必要とされる方へ看護師が直接訪問し生活で困っていることや医療的ケアを行う看護の形で、超高齢化社会を達成した現代においてまさに需要が高まっている医療サービスである。


数年前
新卒で大きな病院に就職したあたしは日本社会が抱える「老い」の大行列と国民皆保険が生み出す医療とシステムの皺寄せに、「看護」という役割だけを手がかりに心をすり減らした。

これだけ忙しいのだから
人の生がこれほど淡々と現実的であっけなくても仕方がない

たくさんの先輩の定石は、常に生命に関わる多重業務を抱えた看護師にのみ与えられた処世術でもあったように思う。

あたしは自分を守るために口を悪くし、あの人の死を「ステる」と言い慣れ、毎日通ってくる熱心な家族を「プシコ」と呼び、寝ずに「老い」と戦う前に患者の手には拘束具が付けられることに甘んじた。

業務よりも患者とのおしゃべりに集中してしまう先輩は、下っ端のあたしにも分け隔てなく声かけてくれて、夜勤明けにはカフェに連れて行ってくたのに、いつからか業務に少し差し障るだけで使えない先輩だとあたしからもバカにされ、患者からは好かれる一方だった。

痛い時に真っ先に駆けつけて手を握ってあげたり、目を見ておしゃべりをしたり、トイレまで歩けるほど回復した喜びよりも、システムの中で業務をこなし終える達成感だけがあたしと看護を首の皮一枚で繋ぎ止めていた。

訪問看護に理想を抱いたのはそうならざるを得なかった医療システムの歯車となってしまうことから、誰かを単なる人や患者やプシコと呼びたくないあたしの、諦められない一片の優しさだったのだと思う。

あの時の患者や人や誰かは、あたしやあたしの親や大切な人だったのかもしれない

病気になるのも、認知症になるのも、不安になるのも、それがあたしと同じ人である以上しょうがないことなのに、それを治療する病院というシステム中にいるだけで人の思いは最小限になってしまう。医療の手順の中に組み込まれたとき、特に「老い」を抱えた人々は国のシステムの中で医療費が支払われ、知らないところで体に管がつながり、わけもわからないまま、一人死んでしまう。

あたしが泣いた小説や映画の主人公なら到底考えられない人生の、決して劇的ではない死は「老い」という暗くて重くて単一的な厄介事の後に訪れる。

人の人生の最期がこんなはずであってはならない。


訪問する家家には、それぞれの家庭や家族の事情が色濃く見える。家族という帰属意識が薄れている現代において、ほとんどが老人独居か老々夫婦といったところで、看護師はその観察力で、昔のようにいかなくなった生活の重みの隙間をすりぬけられる、その人の最大公約数の生活を考える。

どうやったら転ばずにトイレに行けるのか
せめても週に1回でもお風呂に入れないか
薬を落とさずに飲めるにはどうしたらいいか
どうして昼間ずっと寝てしまうのか

それぞれがそれぞれに抱えきれない重みに直面し、対応しきれずにいる。看護師が少しでも対応できるように計らう。あたしが昼間、一人で家で過ごしているのと何の変わりもないのに、「老い」にのしかかった重みが生活を困難にさせ時には病気を悪化させる。あたしは考える。

だったら少しでも元気に生きられる方法を考えようか?

あたしが抱えた「老い」への嫌悪感は超スーパー元気老人のそれを誰もが目指してほしいという、かつて病院でできなかった老人との関わりを訪問看護に見出そうとしていた。

申し訳ないけど訪問看護とはそういうものではない

もちろん元気に向上心を持ちながら過ごしている老年期の方々も多い。だが、総じて人生の階段の中で「老い」と向き合うということは「思春期」と向き合うそれと何ら変わりなく、引きこもりになるし、タクシーでスタバにも行くし、一日テレビを見ただけで終わったりするけど、それでもいいのだろう。「老い」には「老年期」というライフステージに応じた生活があり、あたしが考えていた「少しでも若く」という理想だけが目指すべき姿ではない。「若さ」に憧れるのではなく「老い」を受け入れたり順応できて、スレスレでもいいから困らずに過ごすことができたらそれでいいということなのだ。

冒頭に先輩にかけられた言葉は、実際に「老い」に直面していないあたしの老人や訪問看護に対する楽観的かつ希望的観測を根本から打ち砕くもので、誰でも少しでも若く元気にと切望していると考えていたのはあたしの甘い考えだったのだろう。
どれほど部屋が散らかっていようが、3食食べなかろうが、風呂にずっと入ってなかろうが、十分に老いと向き合っているだけで精一杯なのだからそれでいいのかもしれない。

余計なお世話ということなのだろう。


※今後、訪問看護や老年期に関する内容を載せていくこともあります。


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