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「ZOZO前澤社長が考える世界を平和にする方法」を考える

2018年8月23日公開: MBAデザイナーnakayanさんのアメブロ
2018年8月24日公開: MBAデザイナーnakayanさんのアメブロ

2018年8月21日付けにて、ZOZO創業者の前澤友作さんが「僕が考える世界を平和にする方法」( https://note.mu/ysk2020/n/n928e4d3b3e1d )と題したブログをアップされていました。

要約しますと、「お金という基準で人の価値や国の価値が決まることに恐怖を覚える。うまく使っていたはずのお金に、いつのまにか人々が使われていたのかもしれない。私たちの人生の主役はお金ではない。私たち自身だ。主役の座を引き戻す必要がある。仮に、お金の存在を無くした世界を想像しても、上手くいく。むしろ人が主役の世界が生まれるのではないか。」という内容です。

あくまでも、お金というものは人類にとってかけがえのない大切な友達であり、保有するお金に比例した知恵と忍耐なくして決してお金持ちになることはないということを、きちんと理解した上のお話ですが、前澤さんが考える世界を平和にする方法は、資本主義経済の限界や貨幣社会の終焉が囁かれ、「お金」という金融システムに替わる人類が共有可能なフィクションが求められる現在においては、経済学者アダム・スミスの「国富論」(1776)や「道徳感情論」(1759)に鑑みますと、ある程度の理解が可能であると言えます。

アダム・スミスは「国富論」にて、市場経済システムというものは例え人間個人が持つ「自己利益の追求」という部分最適を自由に促進したとしても、市場や社会は個人の意図とは関係なく成長し続け社会全体の利益を生み出し全体最適に繋がる。それはあたかも「神の見えざる手」によってバランスされているようであると述べています。

更に、「道徳感情論」では、「人間社会のすべての構成員は、それぞれに必要な援助が、愛、謝意、友情、および尊敬にもとづいて互恵的に与えられている場合、その社会は繁栄するし、幸福である」とも述べています。

加えて、「善行の遂行は、建物の基礎ではなく、建物を飾る装飾品であって、それゆえ、推奨しておけば十分であって、けっして押しつけるものではない。逆に、正義は、壮大な建物全体を支える重要な柱である。もしそれが取り除かれたら、人間社会の偉大でしかも巨大な基礎構造は、瞬時にして微塵に砕け散るはずである」と正義の必要性を述べ、その正義は法や支配者による抑圧的な押し付けではなく、人々が持つ「道徳心」に由来し主体的に発生した「義務感」であると述べています。

例えば、「殺人は法律で重い罪だからしてはいけない」という抑圧的な押し付けではなく、「人間は決して人を殺してはいけない」という正義が必要であるということです。その正義は、道徳心があれば殺される人やその家族の立場になって考え理解できるはずです。道徳心があるからこそ社会の中では、殺人を犯した人物が何食わぬ顔をして生きることを許してはいけないという義務感からの正義が生じてきます。仮に、自分が殺人犯になった時に被る損失とならなかった時の利益を比較した際に、自分自身にとって利益となる殺人犯にならないという部分最適な正義は、社会の健全な繁栄を生み出し全体最適の幸福に繋がるとするものです。

現代の社会においては、残念ながら道徳心に基づく義務感から社会が構築されているのではなく、お金を大切な友達としてではなく人を支配者するための道具に使う人間が多くなってしまい、神の見えざる手も機能しなくなり、全体最適の幸福が成り立たなくなっているとも言えます。

前澤さんのいう、「お金をなくすために、もっとお金を持たなくてはならない」との考えは、アダム・スミスが「国富論」にて述べる民間ではまかなえない巨額の資本投下である「公共事業の必要性」と重なるところがあります。


翻って、資本主義経済の限界が囁かれる現状においては、かつての社会主義経済のように、金銭や財産を嫌悪したり、軽視する風潮が強くなっているとも言えます。例えば、新たな社会保障の仕組みとして、政府がすべての国民に対し、生活に最低限必要なお金を支給する「ベーシックインカム(最低生活保障)」制度が世界的に注目を集めていますが、これは一種の社会主義的思想とも言えます。明治維新以降、日本は世界の列強と互角の強さを誇っていましたが、その源泉となっていたひとつの要因は「セルフ・ヘルプ(自助努力の精神)」であったと言えます。

渡部昇一さんは著書「財運はこうしてつかめ」(2000)にて次のように述べておられます。

「(前略)…この自助努力という言葉は戦後の日本において、あまりかえりみられることがなくなってしまった。自分の経済的ハンディキャップを自らの努力で克服するのではなく、社会の制度を変えたり、国家の援助によって解決する発想が支配的になったからである。貧しい人がいるのは社会のゆがみのせいであると断罪し、手厚い社会福祉によって貧乏を解決しようという思想が、日本のみならず世界中に広まった。その結果、自助努力という言葉がとても軽いものになってしまったわけである。…(後略)」
(渡部昇一著「財運はこうしてつかめ」より)

更には、

「(前略)…戦後の日本は社会主義の看板こそ掲げなかったが、その内実はまさに社会主義国家同然であった。政府と官僚が経済を統制し、「持てる人」の財産を税という形で召し上げて、それを福祉という形で再分配する。これが戦後日本でずっと行われてきたことであり、そうした体制を支えた思想が社会主義であったのだ。こうしたことを続けていった結果、ソ連ほどではないにせよ、日本でも自助努力の伝統が失われてきたのは間違いない。明治の日本人たちは、サミュエル・スマイルズの『自助論』を愛読し、その教えに共感して、自分たちの努力や工夫で近代日本を作り上げていった。ところが、その輝かしい歴史も今や過去のものとなった感がある。…(後略)」
(渡部昇一著「財運はこうしてつかめ」より)

加えて、

「(前略)…世界経済は今、アダム・スミスの時代に戻った。アダム・スミスは、経済においては国家や政府が経済をコントロールするのではなく、市場原理に任せておくのがいいのだと指摘した。その主張は今から見てもまことに完璧であったが、惜しむらくはアダム・スミスの時代には国境という規制があり、また貿易も不完全であったので、その精神が充分に実現出来なかった。だが、今やその国境は低くなり、アダム・スミスの言う市場原理が復活しつつある。それは、個人の生き方に置き換えれば「セルフ・ヘルプ」の復活ということでもある。…(後略)」
(渡部昇一著「財運はこうしてつかめ」より)


渡部昇一さんが市場原理の復活、並びに「セルフ・ヘルプ」の復活を提言されてから約20年。一時的に小泉政権(2001-2006)により市場原理が導入されましたが、残念ながら、経済においては異次元の量的緩和政策を始めとした国家や政府が経済をコントロールするに至り、国民からはむしろ「セルフ・ヘルプ」が失われつつあるのが現状であると言えます。市場原理の復活を上手く軌道に乗せられなかった要因は、「セルフ・ヘルプ」への意識の欠落に加え、「セルフ・ヘルプ」を養う努力の欠落にあったのではないでしょうか。もう一度、国民一人ひとりが「セルフ・ヘルプ」への意識と、「セルフ・ヘルプ」を養う努力が不可欠な時代になっているのではないかと私は考えます。



中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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