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【短編小説】ロマンスのレッスン

 深津さんと会うことにしたのは、マッチングアプリで「好きな作家はフランツ・カフカ」と自己紹介していたからでもあった。カフカは没後百年を迎えており、彼女欲しさに読書好きを装って書く名前ではない。『ドライブマイカー』の上映後に増えた「趣味は映画、好きな作品は村上春樹」という突っ込みどころ満載のプロフィールとはわけが違う。

  八月の蒸し暑い夜だった。太陽は隠れているのに、涼しさの気配も感じなかった。恵比寿のイタリアンへ到着すると、腕時計は七時五分前を示していた。高温多湿は女性の敵で、家を出る時に完璧だった化粧は、店に着いた頃には見る影もなくなっていた。

 店のトイレで化粧を直し、口紅をひいて、カーディガンを羽織る間、いくつか意地の悪い質問を考えた。「カフカの『断食芸人』 は、肩書や年収などのセルフブランディングに必死な現代人を諷刺していると思わないか?」 が良さそうだ。 彼はアプリで相当な数の「あいたい!」を獲得していたし、大手外資系金融で働いていたからだ。

 企みは案内されたテーブルで男性と目が合ったときに破綻し始め、 彼が「深津です」と見事な笑みを浮かべた頃には、 完全に消滅した。 店の売りである、二台の巨大なチョコレートファウンテンから漂う甘い香りのせいではない。写真に違わず、彼はとんでもなく美男子だった。

  彼はアルコールが入っても物腰柔らかな態度を崩さなかった。普段は穏やかだが、酒を飲むと手に負えなくなる類の人間もいる。鹿児島出身の同僚がカラオケ屋の看板を叩き割る姿を、先日見てきたばかりだった。時代の寵児を生んできた革命の遺伝子が、行き場をなくしているのだろうか。 豹変といえば、 と私は思った。

「カフカが好きなんですか」

  彼は驚いた表情で私を見た。ハッとするほど青く、 吸い込まれそうな瞳。指通りの良さそうな髪は明るい茶色で、金融マンとして許されるぎりぎりの長さ、耳が隠れない程度だ。糊の利いた白いワイシャツからは、 白く細い腕がのぞく。

「そのこと僕に聞いてきたの、甘楽さんが初めてだよ」

 もう二十七年の付き合いになる自分の名前だが、精悍な彼の声で聞くと、どこかくすぐったい。しかし彼は重大なミスを犯していて、指摘せずにいられなかった。

「そんなに沢山の女性と会っているんですか」

『甘楽』という甘く、楽しいはずの名前は、性格に全く影響を及ぼさなかった。仕事のせいか、浮いた噂もない。

 彼は苦笑いをして、ビールを飲み干した。 喉仏が動く様子を眺めていると、かたちの良い鼻と唇にも目がいった。どちらかといえば中性的な彼も、男性なのだ。

「違うよ、職場で聞かれないって意味だよ。アプリも部下が勝手に登録したんだ」

  彼は軽く手を上げた。メガネをかけた、赤毛でおさげの女性店員がやってきて、彼からワインの注文を受けた。彼女は愛想のない声でグラスの数をたずね、彼は控えめにこちらを見た。「私は結構です、まだ仕事が残っているので」と告げると、女性店員は鼻を鳴らした。やけにフレームの太いメガネの奥には、凶暴な瞳が輝いている。店は明らかに人選ミスをしていた。彼女は食事を提供するより、捕食する側だろう。

「甘楽さんは、カフカが好きなの?」

  去って行く女性店員の背中を見ていると、彼は話をすり替えてきた。前菜の生ハムが思いのほか滑らかで美味しかったため、気分が良くなっており、私はそれを許した。良い料理は、店に平和をもたらす。ここがひどい食事を出す店だったら、今ごろ暴れていたかもしれない。ハッシュタグをつけて拡散され、店を有名にさせ、かえって収益をもたらしていただろう。 資本主義の末路。ビジネス、ビジネス。

「ええ、まあ。『変身』が有名ですよね」
「朝起きたら虫になっていた?」
「はい。虫になった主人公は元に戻らない。一方で『美女と野獣』で、野獣はキスで人間に戻りますよね。この違いって、何なんでしょう」
「うーん。作者の人生観じゃないかな」

  彼は顎に手を当て、左上を見ながら言った。少なくとも嘘はついてない。嘘をついている人間は右上を見ると言う。

「作者が未来はきっと良くなるはずだ、と希望を持っていたら『美女と野獣』になる。 でも運命は変えられない、と絶望していたら『変身』になる」
「深津さんは、どっちですか」

彼は黙って微笑んだ。後者であることは、聞くまでもなかった。

 メインディッシュの鶏肉を運んできた女性店員は、早口で料理の説明を終えた。チキンの皮はパリッと香ばしく、こんがりとローストされた焼き具合もちょうどよかった。惜しむらくは女性店員の態度だろう。深津さんは気にしていない様子で、マイペースに話を続けていた。

「そういえばカフカの出身はプラハでね、僕もそこで人形劇を観たことがあるんだ」
「人形劇ですか。子供の頃に?」
「いや、数年前に。チェコでロシア語が公用語にされた時、チェコ語は使えなくなった。あの国の人たちは自国の言葉を残す為、 チェコ語の人形劇を地下劇場で始めたらしい」
「人形劇なら、子供でも分かりますもんね」

  彼のカバンからスマホが取り出され、動画が再生された。私はテーブル越しに覗きながら、自分のスマホもテーブルに置いた。

「これはモーツァルトのドン・ジョバンニ。言葉がイタリア語じゃなくてチェコ語なんだ」

画面では人形劇という牧歌的な印象に反して、派手な演出がされていた。火花が飛び散り、 客席に向かって水風船が投げられている。チェコ人が骨を折って演出を考えたのだろう。つまらなくては誰も観に来ないし、子供なんてとっくに抜け出している。

「そこまでして、自分たちの言語を残したいんですかね」
「日本人は日本語を禁止されたら、別の言葉をすんなり使いそうだよね。英語を公用語にしている企業も増えたし、習い事の一位も英語だし」

「深津さんには、何か残したいものがありますか」
「幸せな人生を残してあげたいね、弟に」

 言葉こそ優しいが、目には底なしの悲しみが横たわっていた。大きな不幸を経験した者に特有の表情だ。そんな顔をする人間を、今まで一人だけ見たことがあった。

「それにしても、甘楽さんは鋭い質問が多いなあ。心理学者だっけ?」
「しがない銀行員ですよ」
「秘密警察にも見えるな」
「確かに職業柄、流行りの犯罪には詳しいですね。例えばロマンス詐欺とか」

 私はロマンス詐欺について説明した。異性を騙して恋人になったかのように振舞い、金銭を送金させること。現場は主にインターネットで、国を越えて被害が出ており、国際恋愛詐欺とも呼ばれていること。アフリカでは恋愛術のレッスンを行う学校もあるようだ。恋愛コンサルタントが講義をし、モテ技を教えてくれるのだろうか。

 私の興味とは反対に、彼はこの話題に退屈しているようだった。その為、お互いが皿の上の食べ物を片付けることに集中することになった。話題選びに失敗したことは明らかだった。私もアフリカへレッスンを受けに行くべきなのかもしれない。彼氏ができたことがないので、もし女性版があれば割引価格で学べるだろう。

 不機嫌そうに皿を下げる女性店員が、食後のドリンクはコーヒーか紅茶か尋ねてきた。私はホットコーヒーを、深津さんはアイスカフェラテを頼んだ。今こそ、あれを言う時だ。

「このあと時間ありますか? ちょっと休憩しません?」
「休憩? うん、いいよ」

『休憩』がホテルを意味するのだと、彼は分かっていないようだ。注文を終えても立ち去らない女性店員の異変に彼が気付いた時、彼女は凶悪な笑みを浮かべて言った。

「そうはさせないわよ」

  彼女は鶏肉を切ることに使われていたナイフを彼に向けた。私はすぐ右手に置かれたスマホを操作し、チョコレートファウンテンを爆発させた。轟音と同時に、チョコレートが辺りに飛び散った。店内が混乱の渦に包まれている間に、私は立ち上がって彼の手を引いた。そして客に囲まれて問い詰められている女性店員を背に、店から逃げ出した。

 店は明治通りに面していたこともあり、 難なくタクシーを拾うことができた。タクシーは不快指数が高い都会に住む、数少ない利点を享受できた。カーディガンを脱いでカバンにしまい、車に乗り込んだ。

「はじめから爆発させる気だったの?」

  車が発進するとすぐ、彼はたずねてきた。

「ええ、だから上着を着ていました。二人ともチョコまみれだと、乗車拒否されますよ」

 彼の白いシャツには、チョコのシミがついていた。どこまでもクリーンな彼にこびりついた、消えない罪のようだった。

「あのメガネをかけた女性店員のこと、覚えてます?」
「いきなりナイフを向けられたら、忘れられないよ」
「彼女のメガネ、フレームの真ん中に隠しカメラがありました」

 彼は目を見開いた。

「どうして、そんなことに気付けるの?」
「たまに仕事で見るので。副業で逃がし屋をしているんです」

 深津さんのプロフィールを見て依頼を受けたことは、伏せて置いた。恋愛沙汰は無給の労働が多くなりがちなので、普段は受けないようにしている。

 車は渋谷の道玄坂の中腹に差し掛かり、私は車を停めるよう指示した。ペットショップの前で降り、彼の手を引いて、奥のラブホテル街へ向かった。

  くたびれたホテルにチェックインをして、部屋へ入った。ベッドが一台、 ユニットバスと洗面所、テレビだけの簡素な一室だ。楽しい未来と愛さえあれば、それで充分なのだろう。予想に反して、部屋は適温に冷やされていた。私はベッドに腰掛け、隣に彼が座った。ベッドは柔らかく、薔薇の花弁でできているかのようだった。そのまま寝てしまいたかったが、あいにく仕事中だ。ここなら誰にも話を聞かれずに済む。私は口を開いた。

「このままでは、あなたはもうすぐ捕まります」

  沈黙。ラブの要素はまるでなく、ただ気まずい空気だけがホテルに漂っていた。

「表向き、私は銀行員をしています。深津さんの異動明細には、暗号通貨やマネーロンダリングの痕跡がありました。外資の高給取りが詐欺をするなんて、納得いきません」

「……難病の弟がいて、お金が必要なんだ」

「病院への入金履歴はありませんでした。難病なら保険適用されて、現金払いですよね」

  彼はどこか遠くを見つめていた。壁の向こう側にある、 つかみどころのない何かを見ようとしているようだった。

「弟さんが、あなたになりすまして詐欺をしていますよね」
「彼のことも調べたの? 犯罪履歴がデパートの商品みたいに並んでたんじゃない」

 彼はベッドサイドに置かれたペットボトルの水に手を伸ばした。どこか吹っ切れたようにも見えた。それを飲み、私に差し出した。私は口をつけた。間接キスに戸惑っている姿は、かわいい人生を歩んでこなかったので、見せられなかった。

「弟は不幸な幼少期を送ってきたんだ。抑圧的な父と相性が悪かったんだよ。『こんな人間は俺の子じゃねえ』って否定され続けてね。彼は父への反抗から、犯罪に手を染め始めた。今は世界に反抗しているんだろうね」
「弟さんがかわいそうだから、なりすまされても見て見ぬふりをしてきたんですね」
「うん。僕は資本主義社会で幸せを享受してきた。弟の分まで。だから罪を被るくらい、どうってことない。僕が捕まるのを見れば、きっと弟も変わるだろう」
「どうだか。今まで騙されてきた女性を見たことはありますか?」
「いや、一人も」
「愛に裏切られた女を、甘く見ない方が良いですよ」

 私が言い終わるのと、ドアが蹴破られたのは同時だった。そこには見覚えのある女性店員が立っていた。先程と違い鬼のような形相をしていて、チョコレートまみれだった。

「見つけたわよ。クソったれが」

  彼女は靴も脱がずに部屋に入り、ベッドに座る私を突き飛ばした。彼を押し倒して馬乗りになり、言葉を続けた。

「急に連絡取れなくなったと思ったら、こんな女とホテルに……!」
「待って、人違いだ! 僕は君を知らない!」
「嘘つき。あんたの写真、何回見たと思ってんのよ。あんだけ金、使わせておいて!」

 私は立ったままベッドの周りをうろついていたが、彼の首にナイフがつきつけられたのを見て、そろそろ頃合いだと悟った。

「彼女を逃がしますか?」
「も、もちろん!」
「高くつきますよ」
「お金取るの?!」
「ただ働きはしない主義なんです」

彼は頷き、私はポケットから口紅を取り出した。先端を彼女へ向けると、どぎついピンク色の光線が勢いよく発射された。光が彼女を包んだかと思うと、次の瞬間には跡形もなく消えていた。ベッドには呆然とする深津さんが残されていた。

「そうそう。『変身』と『美女と野獣』の違いについて、ですが……」

 ベッドに腰かけようか迷ったが、立ったまま話を続けることにした。

「私は愛だと思います。愛があれば、虫から人間に戻れたはずです。『変身』で、主人公は家族から拒まれ続けたでしょう。ありのままの彼で受け入れられなかった。だから彼も『僕は仕事に行けます』と虫であることを否定し続けた。森に行って虫として生きることもできたのに。ありのままの自分を受け入れられない環境が、悲劇を生むんです」

 沈黙。深津さんはベッドの上であぐらをかいて、難しい顔をしていた。言葉の真意を探っているのだろうか。

「深津さんが弟さんの罪を被ることは、犯罪者としての彼を否定することに繋がります。そんなことしても、人は変わりません。彼に自首させましょう。私より、あなたから言う方が良い。彼と話した時、昔は兄弟仲が良かったと聞きました」

  昔の話題が出た途端に、深津さんの表情は和らいだ。これも兄弟で共通している。

「そうだね。『兄貴を女性から逃がして欲しい』って依頼するくらいだしね」
「依頼人は弟さんではありません。あの女性店員です」

 彼の顔から笑みが消えた。馬乗りでナイフをつきつけられた記憶が蘇ったようだ。

「『恋愛地獄から逃がして』と頼まれました。彼女とはネットでやり取りをしていたので、私の顔は知らないはずです。逃がし屋が私だと気付かず、あんな行動に出たのでしょう」

 私は腕時計を彼の顔へ近づけた。文字盤の中央にレコーダーが仕込まれている。

「会話は録音されていて、編集して彼女に渡します。弟さんと打ち合わせて決めました」
「分からないな。弟が彼女と話せば良いじゃないか」
「愛に囚われている女性は、他人から聞いても信じませんよ。深津さんご本人が登場する必要がありました。あと、弟さんの言葉をそのままお伝えすると……」

悪い顔を作り、声色を少し変えながら言った。

「『あのお人よしのバカ兄貴は、一度痛い目を見て女の怖さを知った方が良い。本ばかり読んでるからな。だから俺からレッスンを残してやるよ。授業料は甘楽さん経由でよろしく』」

 深津さんは声を上げて笑った。もう目に悲しみは横たわっていなかった。太陽のように眩しく、あたたかい笑みだった。

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