水茄子

ぼけなす。どてかぼちゃ。

大阪近辺の住人にとって「水茄子」は夏の風情を味わうのに欠かせない野菜である。陽射しをたっぷり浴びてずんぐり太った水茄子を口いっぱいに頬張ると、みずみずしい歯ごたえとさわやかな香り、ほのかな甘みが盛夏の到来を告げる。

さて日本語には野菜を喩えに用いた貶し文句がちょこちょこありますね。タイトルの「ぼけなす」「どてかぼちゃ」など。

なぜこれらの「比喩としての野菜」でディスるという文化が生まれ、そして語源はどのようなものなのかちょっと調べた。

まず、「どてかぼちゃ」というのはドテッとしたカボチャの意味ではなく、畑以外のところ(土手)に自生したカボチャを指すらしい。種が鳥か何かによって変なところに運ばれ、根を下ろしたのだろう。肥やしや水などを充分に与えられず、世話もされていないから食用にはあまり適さない。不要なところにいて役に立たないことの喩えにされたようだ。

そして「ぼけなす」であるが、色ツヤのボケたナスが語源で能力の劣るもの、という説と、ナスは環境が良すぎると実があまりならない(?)という特徴から、スポイルされて育って何もできないお坊ちゃんやお嬢ちゃんを指す、という説の二つがある。

個人的には前者ではないかと思う。というのも数年前、大阪・泉州のナス農家さんに「馬場なす」という古くから伝わる伝統的品種の栽培について取材したとき、他の品種のナスと交雑して本来の特色を現さなくなった実を「ボケてもうてる」と言っていたのを覚えているからだ。ひょっとしてその人だけの独自のボキャブラリーだったのかもしれないけど、「ボケる」=(交雑して)本来の持ち味がなくなる、というような語感であった。そんなところからやはり「どてかぼちゃ」同様、集団の中で本領を発揮できないものを指していう言葉に転じていった、と考えるのが自然な気がする。

いずれにせよそんな言葉が遍く通じるぐらい、それだけカボチャやナスが日本人の食生活に古くから定着していて、馴染みの深い野菜になっていたということが伺える。どちらも本来は海外から伝わった野菜だが、カボチャは戦国時代、ナスに至っては奈良時代にすでに伝わっていたとされる。

和食で重宝される野菜の中でも、意外なやつが実は新参者だったりする。例えば白菜だ。いっちょまえに和風の野菜の代表ヅラしているけど、原産地は中国で、本格的に食べられるようになったのはせいぜい明治に入ってから。そのことを知ったとき愕然としたが、よく考えればすき焼きに入っているのも、当時ハイカラだった野菜だから、肉料理という新たな時代の波にうまく乗れたのだろうと思う。

私たちが物心ついたときすでに当たり前のようにそこにあったものは、わりと最近やってきて、それまでは新奇なものだったのかもしれない。近代以降の日本の食卓にはそんなメニューや食材、調理方法がゴロゴロあって、ルーツを知るのはやっぱり面白い、と思う。

2020/06/21追記。
これ、だいぶん前に書いた記事で、面白みも何にもないけど、このぶっきらぼうなタイトルにつられてか、意外に大勢の方に読んでいただいています。なんか恐縮です。何度かもっと加筆しておもしろくしようかと思ったけど、そこまでの内容もない記事だし、放置していました。本当にこれだけの記事なんです。でも、できそこないの野菜という比喩が悪口として成立していたのどかな時代を思い浮かべるのも、悪くないものじゃないですか?


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