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「イタリア作曲家の13人」による「ロッシーニのためのレクイエム」を聴いた。

ロッシーニが1868年11月13日にこの世を去った時、彼を追悼するための作品がイタリアの作曲家13人によって作られた。しかし、それが初演されたのはロッシーニの死後120年も経った1988年だった。

そんな話を知ってとても驚いた。
いったい、何があったのだろうか?
イタリア作曲家の13人とは誰か?
そして、それはどのような作品なのだろうか?
調べてみて、そして聴いてみた。

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●ヨーロッパ中を虜にしたロッシーニ。

ジョアキーノ・ロッシーニ(1792~1868)。

イタリアを代表する作曲家として必ず名前が上がる人物。オペラを中心に名作を世に出した。「セビリアの理髪師」や「ウイリアム・テル」は特に有名で、序曲だけ演奏される機会も多い。

「ロッシーニ・クレッシェンド」と称される、同じメロディーを繰り返すごとに音量を増して(クレッシェンドさせて)テンポも速めて盛り上がる音楽は、これから始まるオペラの世界へのワクワク感を増強させてくれる。

そんなロッシーニのオペラに当時のヨーロッパは熱狂。「オペラはイタリアものに限る」という状況を作り上げた。

一方、ドイツ・オペラは地元でさえ上演の機会は激減。再びドイツ・オペラが支持されるのは、ウェーバーの「魔弾の射手」が登場するまで待たなくてはならなかった。

それほど、ロッシーニはヨーロッパ中を虜にした作曲家であった。

●早々とオペラ作曲家を引退したロッシーニ

高い人気を獲得し、乗りに乗っていたロッシーニだが、「ウィリアム・テル」を作った37歳、突如オペラ作曲家を引退してしまう。その後も音楽は細々と作るのだが、主に自らが参加するサロンで演奏されるような小品が中心となった。

彼は「作曲家」から「美食家」へと転身したのである。食べることはもちろん、レストランを経営、自らも料理をしたという。「●●のロッシーニ風」という、牛フィレ肉にフォアグラとトリュフが添えられた料理が今でもレストランのメニューに残っているほどである。

●ロッシーニを尊敬していたヴェルディ

ロッシーニと並び、イタリアの偉大な作曲家のひとりに数えられるジュゼッペ・ヴェルディ(1813~1901)。彼は先輩作曲家であるロッシーニをとても尊敬していた。

ロッシーニが亡くなった時「彼を追悼する作品を作ろう」と思いたったのはヴェルディであった。

亡くなった人物を追悼する作品といえば、もちろん「レクイエム」である。

●ヴェルディのレクイエムは2つある?

ヴェルディのレクイエムはクラシック音楽作品の中でも人気が高い作品のひとつである。死者を静かに弔うどころか、逆に驚いて蘇ってしまうような劇的で激しい作品。オペラ作曲家ヴェルディの想いが、そして魅力が存分に表現され尽くしたレクイエムといっても過言ではないだろう。

しかし、その人気あるレクイエムが捧げられたのは、ロッシーニに対してではない。ヴェルディの友人であった作家アレッサンドロ・マンゾーニに対してである。

しかし、ヴェルディのレクイエムといえば1曲しかない。

ヴェルディは「ロッシーニのためのレクイエムを作ろう」と「思っただけ」ではない。実際に「作った」のである。

しかしそれは、上演されることなく、楽譜の存在は忘れられ、深い眠りに付くことになってしまうのである。

●ロッシーニのためのレクイエムとは?

ヴェルディは、当時イタリアで活躍していた作曲家たちによる合作によって、それも無報酬でレクイエムを作ろうと考えた。そして初演するために必要な費用(オーケストラやソリスト、合唱団など)も皆それぞれが負担しようと考えたのである。

●イタリア作曲家の13人とは?

参加した作曲家は、ヴェルディの他に12人となった。

名前を列挙すると

アントニオ・ブッツォーラ、アントニオ・バッツィーニ、カルロ・ペトロッティ、アントニオ・カニョーニ、フェデリコ・リッチ、アレッサンドロ・ニーニ、ライモンド・ボウケロン、カルロ・コッチャ、ガエタノ・ガスパーリ、ピエトロ・ブラタニア、ラウロ・ロッシ、テオドゥロ・マッベリーニ

聞いたことが無い名前がずらりと並ぶ。

でも当時のイタリアを代表的する作曲家たちであったのだろう。

ロッシーニやヴェルディのように今でも名を残し、作品を残し続ける作曲家になるには、才能はもちろんだが、時代におけるチャンス、そして独特の個性も必要であった。

●初演されなかった理由とは?

イタリアの作曲家13人はレクイエムの各部分を分担して無事作曲し終えた。そして初演をしようとしたのだが、オーケストラと合唱を担当するボローニャ歌劇場が、何かのボタンの掛け違いか「無料では演奏しない」と言い出して参加を辞退。これにより初演はとん挫してしまう。

また別の理由として、指揮を予定していたヴェルディの友人マリアーニが、ヴェルディと不仲になったことが要因だったとも言われている。

そもそも無報酬が前提で始まったロッシーニのためのレクイエム上演である。作曲家の中には気乗りしなかったものもいたかもしれない。13人も集まればいろいろな考え方の違い差も出てまとめ上げるのは大変なことに違いない。

ヴェルディはこの楽譜を封印して楽譜出版社のリコルディ社に預けてしまった。

この時のヴェルディの気持ちどんなものだったのだろう。

尊敬するロッシーニを追悼しようとしたにも関わらず、それができなかった無念さ。

何よりも「金」が優先する考え方が蔓延る世間にあきれ返ったに違いない。

●発見と初演

1970年。忘れ去られていたこのレクイエムの楽譜が発見されたのである。

それは限られた作品しか知られてこなかったロッシーニ作品の再発掘が進み始め、再評価されるようになった「ロッシーニ・ルネサンス」とも言われるこの動きが、眠り続けていたこの「レクイエム」の発見にもつながったとも言えるだろう。

レクイエムは不足していた楽譜の部分も補ったうえで演奏されるために息を吹き返す。

初演は1988年9月11日。イタリアではなくドイツのシュトゥットガルトで行われた。

ロッシーニの死後120年。そして楽譜の再発見から初演までは18年もかかっている。

●作品を聴いてみる

まだ無名の作品であるがゆえにCDとなっている数は少ないが、今回聞いたのは1988年に初演された時の演奏会を録音したもの。まさに120年の眠りから覚めた時の演奏である。

イタリア作曲家の13人による作品である。果たして、ひとつの作品として統一感は取れているのだろうか?

ヘルムート・リリング指揮/シュトゥットガルト放送交響楽団 盤

かなり聴きどころが多いと感じる。イタリアの気質なのだろうか。ヴェルディのレクイエムほどではないがパワフルな合唱とソリストの高い技術も必要な、熱を感じる作品になっている。

ヴェルディ以外の作曲家の個性は良くわからないのだが、それではヴェルディが作曲した部分はどうだろうか?ヴェルディのレクイエムと比較するとどうだろうか?興味はそこに集中するのは仕方がないことである。

ヴェルディの作曲した部分は最後の部分。「Libera me(リベラ・メ)我を救いたまえ」である。

ソプラノの独唱で始まるのだが、なんとヴェルディのレクイエムの終曲「Libera me(我を救いたまえ)」とそっくりで驚いた。そしてその後の部分、あの特に迫力ある「Dies ire(怒りの日)」も、若干弱いが、かなり似通ったまま曲が曲が終了したのである。

それもそのはず。

ヴェルディはロッシーニのレクイエムのために作ったこの部分を、数年後に亡くなるマンゾーニに捧げる、いわゆる「ヴェルディのレクイエム」に改良の上使用したのである。

つまり、ロッシーニのためのレクイエムの作曲がされなければ、ヴェルディのレクイエムも今聴けるような内容のものではなかったのかもしれない。

120年後にようやく初演されたロッシーニのためのレクイエム。なかなか上演されることは無いが、いつかまた、演奏される機会は来るであろう。ぜひ生で聴いてみたいものだ。

イタリア作曲家の13人。ヴェルディ以外の知られざる作曲家たちも、今後ロッシーニの作品にように発掘されてくる日が来るのだろうか。それも興味深い。

ソプラノ)ガブリエラ・ベニャチコヴァー
アルト)フローレンス・クィヴァー
テノール)ジェームズ・ワグナー
バリトン)アーゲ・ハウグランド
バス)アーゲ・ハウグランド
合唱)シュトゥットガルト・ゲッヒンゲン聖歌隊、プラハ・フィルハーモニー合唱団
管弦楽)シュトゥットガルト放送交響楽団
指揮)ヘルムート・リリング
1998年9月11日 シュトゥットガルト

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