ホテルウイングステート東京 第8話

村井 貴明(むらい たかあき) 38歳 その3

「そんな、謝らないでいいよ。ひとみちゃんが二十歳になったら、またこういうところにご飯を食べに行こう。だから、気にしないで」
「そうですね」

 振り向いて、申し訳なさそうな顔をしている少女に歩み寄った。絹のように柔らかい髪を撫でると、彼女が僕を見上げる。信頼のあたたかいまなざしが嬉しい。

「そのときは、ワインで乾杯しよっか……と、言いたいところだけど、最初からワインなんか飲んじゃうとキツいだろうなぁ。ひとみちゃんはお酒に憧れってある?」
「ちょっとだけあります。おしゃれだし。けど、ワインだと度数とか高いんですよね?」
「そうだよ。だから、僕と一緒にボトルでワイン飲めるのはまだまだ先かも。まずは無難にカクテルとかからかな。来年、ひとみちゃんの誕生日の日はここのバーで飲んでみる?」

 夜空へと昇り始めるエレベーターの中で、最上階にあるバーに行ったときのことを思い出した。東京の夜景を一望できる素晴らしい絶景と、凄腕の青年ピアニストの演奏するジャズピアノは最高だった。
 跳ねるような気持ちいリズムと、流れるようなお洒落なタッチで女性客に向けて即興でオリジナル曲を演奏したりしていたのを覚えている。彼がひとみちゃんのために演奏するとしたら、どんな曲になるのだろう。

「カクテルって、どんなものがありますか?」
「そうだね……僕が最初に勧めるなら、カシスオレンジかカルアミルクかな。甘くて飲みやすいし」
「オレンジかミルクなら、ミルクかな」
「ちなみに、カルアミルクはカフェオレに近い感じだよ」

 コーヒーっぽいと言われて、ひとみちゃんは驚いていた。そういえば、カフェでも頼むのはミルクティーやココアが多い……と、いうか、思えば今まで彼女がコーヒーやカフェラテを飲んだのを僕は見たことがない気がする。

「そういえば、コーヒー大丈夫だっけ?」
「ブラックではまだ飲めません。カフェオレも牛乳たっぷりいれて作ってます」
「じゃあ、牛乳多めで作ってもらおう。そうすると度数もさがるから、かえって飲みやすいかもしれない」

 ふと、窓ガラスに真紅のドレスを身にまとった少女と並んだ僕がガラス越しに映った。彼女と一緒にワインを飲むのは2,3年後ぐらいだろうか。きっと、今よりもっと綺麗になっているだろう。イメージするだけで心が躍る。
 だがそれでも、僕が大好きな、あどけない心はまだ残っているのだろうか。少女から大人になるのなら、引き換えになるのは純粋無垢な心だろう。

「そのドレス本当に似合っているね。黒じゃなくてやっぱり赤が似合うよ。女の子っぽいし。ヒールのある靴もとても素敵」
「ありがとうございます。上京してからスカートもワンピースも着てなかったので、最初に着たときは恥ずかしかったです」

 照れて頬を少し赤く染めながら、ひとみちゃんははにかんで笑った。嘘がつけない真っ白な少女だからこそ、信じることができてそばにいてほしいと思える。大人の恋愛なんて醜いものばかりでうんざりだ。
 ……だから、たとえ彼女が大人になっても、ほんの一握りでいいから少女のような心を持っていて欲しい。そんな僕の淡い願いは、やはり叶わないのだろうか。

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