ホテルウイングステート東京 第13話
如月 ゆかり(きさらぎ ゆかり) 40歳 その2
彼の音色からは、本当に本当にピアノと女性が大好きなのが伝わってくるわ。女性とおしゃべりしたあとは、ピアノとその女性について話しているような気がする。そのピアノとのおしゃべりも楽しいようで、どんどんリズムに乗っていくからいいのよね。
あれだけピアノと二人で話すのが好きなら、コンサートで2時間ぐらいピアノと話すのは全然大丈夫そうだし、お金を払ってでも聴いてみたい。
純粋に音楽が好きな人が奏でる音色ほど、魅力的なものは無いもの。
「……あの人とここに来たかったわ」
あの人が生きていたら、一緒に彼の演奏を聴きたかったな。そんな気持ちがひとりごとになって、心からもれていた。
……でも、いいの。ワンラストキスが私に大切な人を思い出させてくれるから。
そう思いながら、私は目の前にあるロックグラスの中のカクテルを一口飲んだ。一口飲むだけでも、もういないあの人は私の中で生きていると感じることができる。それだけで私は幸せなの。
「そこの青いドレスのお姉さん。ワンラストキス飲んでるお姉さん」
お姉さんなんて呼ばれたのはいつぶりかしら。最初は誰か別の人かなと思ったけど、ワンラストキスを飲んでいると言われて私だわと思った。こんな度数が高いお酒を好んで飲んでいる人は少ないもの。
声のきこえた方を向いてみると、若い男性がニコニコと笑っていた。手には私が飲んでいるものと同じ、淡いピンク色のカクテル。
こちらに向かって軽く手を振り、会釈をすると私が座ってる席に歩み寄ってきた。
「お、やっぱりお姉さんだ。こんばんわ」
青年は私を見てニコニコと笑顔を見せた。
髪は暗めの茶色で短く、額が隠れる程度に前髪がのびている。暗がりだからはっきりと顔は見えないけど、雰囲気はどこか子供っぽい感じが伝わってくる。多分、20代ぐらいかしら。
体格は結構しっかりしていて、スポーツでもやっていそうだわ。シンプルに着こなした黒いジャケットから見える白シャツの胸板が厚い。でも、無駄に筋肉はついていなくて、引き締まった感じの体つきだわ。
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