ホテルウイングステート東京 第14話

如月 ゆかり(きさらぎ ゆかり) 40歳 その3

「……なにか御用かしら?」

 人がせっかくお酒を楽しんでいるのに。気やすく話しかけないでよ……近頃の若い子は空気が読めなくて嫌になっちゃうわ。

「いや、奥から拍手が聴こえたので。誰かがいるのかなー?と思っていってみたら、綺麗な背中のお姉さんが見えたので」

 私はこの店でマスター以外の人に話しかけられたことは一度もないのよ? あの日高君だって、私の邪魔をしちゃいけないっていうのはわかるの。
 日高君は女性客なら年齢やカップルとか関係なく、本当に誰でも声をかける。カウンターでカクテルを待っているときに何度か見たことあるわ。
 いい空気持っていこうと彼氏が頑張っているカップルだって、お構いなし。ピアノの前に連れていって、即興曲のプレゼントをするのよね。(最初はすっごく嫌な顔をされるけど、演奏後は格段にムードがよくなってるから不思議だわ。)

 でも、そんな彼ですら私に声をかけたりはしない。マスターに「2,3ヶ月立っても日高が話しかけない女性はあなたが初めてですよ」と言われたぐらいだもの。なのに、この青年ったら……

「気になったんで、声かけちゃいました」

 どこか恥ずかしさを含んだ笑顔で青年は続けた。なにが「声かけちゃいました」よ。

「気を悪くしたなら、ごめんなさい。俺、青井空っていいます。青い空、覚えやすいですよね!」

 窓の向こうの夜空を指差しながら青井さんは名乗ってきた。でも、窓の向こうに広がっているのは青空では無く、星が見えない大都会の真っ暗な夜空。ずっと奥まで広がるビル群の無数の明かりが作り出す夜景よ?

「あ、今は夜だから自己紹介になっていないか」

 頭をかきながら苦笑いで青井さんはいった。話しかけてきて自己紹介に失敗するなんて、呆れて思わずため息をつきそうになったけど、ここは踏みとどまるべきね。初対面の人間に対してさすがに失礼だわ。

「……如月ゆかりです」
「ゆかりってかわいらしい名前ですね!どんな字書くんですか?」
「普通にひらがなですが」

 相手が名乗ったのにこちらが名乗らない事が失礼に思えて、とりあえず名乗ってみたけど、私の苗字ではなく名前に触れてきた人は何年ぶりかしら。
 初対面で自己紹介をすると、ほとんどの人が苗字について触れてくる。背丈も人より少し高いからか、芸名と勘違いされ役者なのかと絡まれたり、スカウトされたことも何度かあるけど、芸能界なんて興味が無いから断ったわ。

「青井さんは」
「空でいいです。俺、名字で呼ばれるのあんまり好きじゃないんで」

 私の言葉を遮って青井さんは口を開いた。強引に割って入ってきたから、よっぽどの理由があるのかしら。ちょっと悪い事しちゃったかも……

「ごめんなさい」
「いや、如月さんは謝らなくていいです。俺が嫌で言ってるだけなので。悪いのは俺です」

 私が謝ると空さんは慌てて言葉を返したけど、謝らなくていいけど譲れないというあたり、どこか一本芯が通ってそうな感じがする人。そういえば、あの人にもそんなところがあったわ。
 ……隣に誰も座って欲しくないと常に思っているけど、空さんと話していると、なんだかたまには誰かがいるのもいいかなと思えてくるわね。

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