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【映画感想】バックトゥザフューチャーシリーズ

はじめに


時間を自由に移動して、過去や未来の出来事を自分の目で見てみたいと思ったことはないだろうか?
たとえば、日常的な移動手段である車に超小型核融合炉を積み込み、そのエネルギーとスピードを利用して、設定した年月日時へ移動できるとしたら?
日常でありながら非日常へ飛び込めるそんな夢のわくわくが、すなわちバックトゥザフューチャーシリーズでは表現されていると思った。
いまさら視聴したばかりの私にはたいへん新鮮な作品だったため、こちらの記事に収めた感想はオタクが全裸で泥沼を転げまわるような御託の羅列となっている。ご笑覧いただきたい。
シリーズ作品を一作ごとに示す場合、以下アラビア数字で表記する。

画面がおもちゃでいっぱい


ガジェットをキーワードにして語ってみよう。
最初に登場する小物は時計だ。数々の時計がドクの研究所には設置されている。中には時計を使って、設定時刻に犬のエサをフードボウルめがけて飛び散らせる仕掛けまである。装置としては失敗しているが……。
だから時計や時間が大切なモチーフとなることが早速わかる。しかし所せましと並ぶ時計はガチャガチャと、画面がやかましいことこの上ない。そこにマーティーがやってくる。彼はドクを探して呼びかけるが返答はない。屋内を探しているうちに気になったギターを拾い、ロックフェスでも見かけないような巨大アンプにつなげて軽くかき鳴らす。途端に爆音の衝撃波が彼と周辺の小物を吹き飛ばしてしまう。
まあ無茶苦茶をするOPだと思う。けれど時刻が並んで成功もしないような仕組みが淡々と続くわけのわからない画面を吹き飛ばしてくれる痛快さは、シンプルで魅力に富んでいる。現実で時刻に包囲されながら送る生活環境(そう思っているかは別として)にあるなら、まさに現実のフレームを破壊して、画面の物語へと蘇らせる瞬間だと思う。
そういう無茶苦茶が、映画ではできる。文字ではできない。そこがもう面白いわけで、バックトゥザフューチャーシリーズに登場するガジェットを軽妙に使いこなすマーティーは、物語の魅力となっている。
たとえばデロリアンであり、過去・現在・未来の行き来を可能にする点で最重要アイテムであろう。物語を駆動するのにガジェットと登場人物がセットになるという構図は、ドラえもんみたいなものだと思う。
ドラえもんの四次元ポケットからひみつ道具が取り出された時、無性にわくわくする感覚は忘れがたい。お話がそのあと、いくら現実に苦渋をなめさせられる展開になったとしても、取り出された道具を使ってみるという行動は自分ならどうするだろうかと想像を掻き立てる。
ちなみに、ドラえもんのお話の面白さについては、失敗する可能性については想像できない、あるいは知ったかぶりするのび太たち登場人物が、最終的に失敗へ至ってしまうさまが滑稽なのだと思う。だから各話で似たり寄ったりの展開パターンが繰り返されても、ドラえもんのお話は笑っていられる。
ひるがえって、デロリアンのわくわくさせる魅力は言わずもがな、過去へ移動した時のデロリアンには何らかの問題が起こる。エネルギーを調達できなかったり故障が起こったり、そうした課題をクリアして現代へ戻ろうと奮闘するのがシリーズ作品に共通する山場となっている。
しかし考えてみると、バックトゥザフューチャーシリーズでガジェットと呼べそうな道具はデロリアンだけかもしれない。ほかに登場する道具はスケボー・ギター・ガンゲームで、マーティーにとってのキーアイテムとなっていた。それらはマーティーの趣味でもあり、彼自身の磨きをかけた遊びの経験によって困難な状況を打開する意匠でもある。
いずれにせよ、ガジェットもキーアイテムも、もとはなんでもないよくある道具でしかなかった。そこに、マーティーなら、自分なら、どう使うだろうか?と想像を掻き立てるわくわくが刺激されることで、おもちゃたちは燦然と輝いた。

ハプニングがお好き


天丼をキーワードにして語ってみよう。
シリーズ作品に共通する山場は、デロリアンのタイムトラベル機能をどうやって起動するかという点だった。そのほか三部作に共通する点も多く、いわゆる天丼となる展開パターンがいくつか存在する。
たとえば、キーアイテムの一つであるスケボーに見立てた板を使って、追手から逃げ切るシーンがある。その追手はきまって、街の乱暴者ビフと下っ端連中だ。彼らは難癖をつけてマーティを挑発しては手痛い一撃をもらう。そして数的不利の状況に慌てて逃げ出すマーティが近くにいた子供の手からボードを拝借してスピードテクニック勝負となる。寸でのところで振り切った追手はそのままに、馬糞を積んだトラックに突っ込んでうんこまみれだ。この天丼は1と2の典型場面だが、ビフたちとの対立場面は3にも含まれる。
もちろん時代背景は移るので、父ジョージの時代、息子jr.の時代、先祖シェイマスに合わせて、マーティ一族と因縁深い各時代のビフ一族が登場している。厄介な暴れん坊との因縁がずっと続いているあたり、マーティの家系もなかなか苦労していると思える。
そのほかにも、たとえばマーティが気を失ったあとで目覚めるという転換の場面も天丼となっている。これは母親ロレインやシェイマスの妻マギーと容姿はいずれも異なるものの、その時代ごとの特色や性格によって驚かされたマーティの大げさなリアクションへつながる。約束された展開でありながら意匠を変えることで、その場その時の雰囲気と状況をおもしろおかしく感じられる。
こうした天丼のシーンを書き出してみると、突発的な衝突や出会いのハプニングイベントは幾度も繰り返されていて、それがバックトゥザフューチャーシリーズの面白さでもあると思い出せる。そのハプニングイベントも時代の往還が繰り返される中で上書きされていくから、たとえ同じような登場人物と役割の配置だったとしても、常に新しくさっぱりとした快さが味わえる。
天丼自体は珍しいものではない気がする。しかし、バックトゥザフューチャーシリーズでは1での視聴体験が引き継がれ、それが上書きされていく。だから、変わらなかった部分が色濃くなっていると思う。過去を変える物語なのだから、変わらなかった部分といえば当然、変えようとした人そのものだ。

キャラクターになれるって物語だ


ドクとマーティーをキーワードにして語ってみよう。
シリーズを通して、マーティはドク(過去人物の場合もある)と協力しながら降りかかる問題を解決へ導く。すなわち、マーティとドクが作品の主軸となって歴史は動いている。しかしそれは仮初によって紡がれた物語だ。
なにせ問題を起こしたのも解決するのも本来の生きるべき時代を離れた場所だから、ありのままの自分が介入するわけにはいかない。彼らは過去の時代へ訪れた未来人であったり未来の時代へ訪れた過去人であったりする、その時々でどの時代にも安定した生きるべき居場所は見つからず、必然的に自分を偽らざるをえない。仮初というのはそういう意味だ。
たとえば1では、デロリアンの燃料であるウランを手に入れるためにリビアの過激派を騙したドクが銃殺されてしまったがためにマーティは涙をこらえて過去へ逃れ、そのせいでねじ曲げてしまった両親の恋路と消えかかる自分自身の出生という歴史を元通りにするため、カルバンクライン(パンツのブランド名)と名前を偽って両親をくっつけようと恋愛指南に乗り出した。父親ジョージの恋路を意図せず奪ってしまったマーティは本人の意図に関係なく、その後も繰り返しロレインからの憧憬を強めてしまう。こうしたお互いの意思や生き方のずれ、あるいは取り違えそのものが、テンポの良いコメディとなっているのも愉快だ。
さらに2は未来の2015年と過去の1955年が舞台であり、3ともなれば西部開拓時代が舞台となる。それぞれドクはどの時代においても持ち前の頭脳による環境適応性の高さを見せているが、マーティはむしろ仮初の自分を取り繕いながらその時代の人々と一時的な関係を築く。
すると、実はドクの変身・変装は順応するための手段で、マーティの変身・変装は変わらない自分を守るための手段ではないかと思う。
その上で、マーティは偽名を使ったり装いを変えたりすることはあっても、なかなか変化できない存在だと考える。ドクは好奇心と知恵によって自分なりの生き方をどこであっても見つけてしまう。ついに偽ったと言える場面があるとするなら、3で両想いとなったクララに対して未来へ帰らなければならないことを告げようとした時だろう。
それではマーティが変化できないのはなぜなのだろうか。この問題は感情や衝動がキーになりそうだ。
ドクが理性の人物であるのに対して、マーティは感情の人物だ。たびたび短気を起こして喧嘩に発展する場面もあり、シェイマスからも冷静になるよう忠言されていた。したがって、マーティはコントロールできなくなった時の感情に対処する方法を知らないのだと推測できる。だとすれば、時に荒立った感情をいなせるようになった時、マーティは自分なりの生き方を手に入れられたといえるはずだ。すなわち自分をよりよく知ることができた時だ。
3のラストにおいて、マーティは恋人のジェニファーとドライブへ出かけた矢先、信号待ちのタイミングで並んだ車からヤンキーに感情を煽られる。頭にきた彼は早々に喧嘩腰となり、レースに飛び出そうとした所を華麗にバックしてあわやトラックと衝突するという未来を回避してみせた。もちろん未来を知っていたわけではない。しかしよりよい未来を選択できるように、ゆっくりと変化してきた結果が表れたのだと思う。
だからマーティは変化できなかったのではなく、変化が表れるまでの経験が必要だったと考える。
ドクとマーティは、時代ごとに合ったキャラクターとして変身・変装するという問題を通じて、偽らざるよう生きられる未来を目指す主人公たちだった。

おわりに


タイムスリップ、タイムトリップ、タイムジャンプ、タイムトラベルなどなど、時間移動を扱った作品は数知れない。時間移動ができるとしたら?という可能性は、魅惑の何かを感じさせる。走光性を持った蛾みたいにふらふらと近寄きたくなってしまう。
それは過去へ未来へ、時間を自由にしたいという支配の願望であろうか?どうにもならないからこそ、時間へ介入したいという欲望は際限がなく、魅了されるのかもしれない。
そんなわけで、タイムマシンという都合の良い妄想産物は嘘っぱちだ。だからこそ、そこに一定の規則性で縛ってみると奇想天外な時間の手触りが感じられるような気がする。それでは、奇想天外さに巻き込まれたキャラクターたちはどうなるか?
彼らは変化のきざしを体験している。疑問を持ち、悩み、経験を通して未来を目指す。その未来とは、主人公たちが自分なり変えてみせた生き方だ。まとめると、普通のリアリティということになる。
キャラクターが普通になることで物語は終わりを迎える。バックトゥザフューチャーシリーズもそうだっただろうか?
ドクは未来へ。マーフィーはいまで。それぞれが生きる時の中で思い描いた未来を作ろうとする。そのリアリティは普通だが、とてもワクワクする気持ちになるのは私だけだろうか?なにせ一足先に未来へ向かったドクが待っているのだから、ゆっくりと変化しさえすればいい。

(2023年3月27日 更新)
(2023年5月28日 更新)
(2023年12月21日 更新)


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