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【試し読み】史実に基づく衝撃のミステリー!『狙撃手ミラの告白』ケイト・クイン〈著〉

歴史ミステリーを書かせたらはずれなし、ケイト・クインの最新作をお届けします。これまで、2人または3人を主人公に据えて幾層にもストーリーを重ねてきた著者が、初めて単独の主人公として選んだのが、ソ連の狙撃兵ミラ。実在の人物であり、のちにソ連邦英雄を受章し、切手にもなった英雄です。その彼女の人生に、クインらしい手法でスパイスを効かせ、極上のエンターテインメントを生みだしました。ぜひ主人公になりきってお楽しみください。

『狙撃手ミラの告白』
ケイト・クイン[著]
加藤洋子[訳]

家族のため、祖国のため。少女は敵を撃つ――
第二次大戦下、309人の敵を仕留めたソ連の伝説のスナイパー。
実話に基づく歴史ミステリー!

五年前
一九三七年十一月、ソビエト連邦キエフ
ミラ

1

 わたしはまだ兵士ではなかった。戦争はまだはじまっていなかった。人の命を奪うことになるなんて、想像もしていなかった。わたしは母親で、二十一歳で、怯えていた。母親というのは、一瞬にしてパニックに陥るものだ。例えばわが子はどこかと部屋を見回し、姿が見えなかったときなど。

「だからね、ミラ」母が口を開いた。「怒らないで――」

「スラヴカはどこ?」つぎを当てた手袋と雪をかぶったコートを脱ぐ前から、動悸が激しくなっていた。床には息子が作りかけのブロックの工場があり、擦り切れた絵本の小さな山もあるのに、固太りで黒髪の五歳児の姿はなかった。

「あの子の父親が訪ねてきたのよ。約束をすっぽかしたことはわかっているって――」

「いちおう弁解するって、アレクセイにしたらたいしたものね」忌々しいにもほどがある。離婚申請の手続きをとる日時を設定するのはこれで二度目で、夫はまたしてもすっぽかした。離婚申請のための手数料五十ルーブルを捻出するのに何カ月もかかり、事務処理が滞りがちな役所で申請手続きをとる日時を決めるまでに何週間もかかる。そのうえ、人でごった返す寒い廊下で、夫の金髪が見えないかと目を皿のようにして何時間も待ち……挙句にすべての努力が水泡に帰すのだ。腸(はらわた)が煮えくり返る。それでなくたって、ソ連の市民は列に並んで延々と待たされているのだ!

 母がエプロンで手を拭きながら、大きな黒い目で嘆願する。「彼はとっても恐縮してたわよ、マリシュカ。スラヴカにお菓子を買ってやりたいって。この数年はめったに会えなかったんだもの、実の息子なのに――」

〝誰のせいだと思ってるの?〟言い返せるものなら言い返したい。息子を父親の人生から締め出した張本人はわたしではない。ロスティスラフ・パヴリチェンコと名付けて二カ月と経たないうちに、その息子を人生から締め出したのは夫のほうだ。結婚生活も父親になることも自分には向いていないと宣って。だが、人のいい母の顔に期待の表情が浮かぶのを見ると、わたしはきつい言葉を呑み込んだ。

 母がやさしく言う。「約束をすっぽかすにはそれなりの理由があったんじゃないの」

「ええ、そうね。わたしを意のままにするという理由が」

「彼は本音のところでは仲直りしたいんじゃないの」

「お母さん、二度とそういうこと――」

「医者なのよ、ミラ。ウクライナ一の外科医だって、あなたも――」

「それはそうだけど――」

「成功者じゃないの。共同住宅一棟分より多い部屋をあてがわれて、高い給料をもらって、それに党員よ。手放す手はないわ」母が古い話を蒸し返す。アレクセイとわたしが付き合うことにはいい顔をしなかったくせに。慌てて一緒になることはない、彼とは歳が離れすぎている。母の言い分はたしかに的を射ていた――それでも、娘に安全で快適な暮らしを送らせたいと思うのも母心だ。「彼は酒飲みではないし、一度も手をあげたことがない、とあなたは言ったのよ。彼は理想の夫ではないかもしれないけれど、外科医の妻ならパンの配給の列に並ぶこともないし、子どもたちだってそうせずに生きられる。ろくに食べられなかった厳しい時代をあなたが憶えていないのも無理ないけど、まだ小さかったから……でも、女の力じゃ子どもを食べさせていくのは到底無理なのよ」

 わたしは擦り切れた手袋に目を落とした。母の言うことはもっともだと、自分でもわかっていた。

 それでも、幼い息子が父親と二人きりになるのを恐れる気持ちがどこかにあった。

「ねえ、お母さん。二人はどこへ出掛けたの?」

 

 射撃練習場とは名ばかりのその場所は元倉庫だった。窓には鉄格子がはまり、置いてある銃器の数も少なく、壁際に標的を貼った防護板がずらっと並んでいるだけだ。射座では立った姿でピストルを構える者、腹這いになってライフルを撃つ者……そのちょうど真ん中に、子ども連れの長身でブロンドの男がいた。アレクセイ・パヴリチェンコと幼いロスティスラフ・アレクセイヴィチ。安堵のあまり胃袋がでんぐり返った。

「男なら銃の撃ち方ぐらい知っていないとな」ちかづいてゆくと、息子に話しかけるアレクセイの声が聞こえた。スラヴカにライフルの構え方を教えているところだ。年端もいかぬ子どもにライフルはいくらなんでも大きすぎる。耳に馴染んだよく通る朗らかな声。夫がなにより好きなのは、自分より無知な人間に講釈を垂れることだ。「その道の達人になるには、生まれ持った才能が必要だけれどな」

「どんな才能、パパ?」スラヴカはよく知らないブロンド男を、目を丸くして見あげた。生後六週間の彼の人生から、振り返ることなく歩み去った男だ。

「忍耐力。目がいいこと。ぐらつかない手と、手の中の道具に寄せる特別な感情。おまえのパパが射撃の名手なのはそのせいだ――外科医の手だからな」アレクセイが笑顔を向けると、スラヴカの目がますます丸くなる。「さあ、撃ってみろ――」

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続きは本書でお楽しみください。

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