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【試し読み】『暗闇のサラ』(カリン・スローター/ 〈ウィル・トレント〉シリーズ)

暗闇のサラ
カリン・スローター[著]
鈴木美朋[訳]

Disney+(ディズニープラス)でドラマ配信中!
〈ウィル・トレント〉シリーズ最新刊
暴行された女性の最期の言葉が、15年前に封印した悪夢を呼び覚ます――

プロローグ

 サラ・リントンはスマートフォンを耳に押し当て、患者の右腕の長く深い切り傷を診察する一年目の研修医(インターン)を見守っていた。新人ドクター、エルディン・フランクリンの今日の調子は、絶好調とは言いがたかった。救急外来のシフトに入ってまだ二時間しかたっていないのに、すでにドラッグで興奮した総合格闘技の選手に殺されかけ、住所不定の女性患者の直腸検査でひと悶着(もんちゃく)起こした。

「こんなこと言うなんて信じられなくない?」テッサの憤慨した声が電話から聞こえてくるが、サラは妹が新婚の夫の愚痴をこぼしたいだけで、返事を求めていないのをわかっていた。

 サラはエルディンから目を離さず、彼がはじめてポリオワクチンを試すジョナス・ソークもかくやと思われる真剣な表情でリドカインをシリンジに吸いあげるのを見て、顔をしかめた。薬瓶(バイアル)に気を取られすぎて、患者の様子をまったく見ていない。

「ほんとにあいつ信じられない」テッサがしゃべりつづけている。

 サラはテッサに調子を合わせながら、電話を反対側の耳に当てた。タブレットを出してエルディンの患者のカルテを参照した。切り傷自体はさほど重傷ではなかった。トリアージした看護師によれば、患者は三十一歳男性、頻脈あり、体温は三十八度三分、極度の興奮と混乱が認められ、不眠症状がある。

 タブレットから目をあげる。患者は肌に虫が這(は)いまわっているかのように、胸と首をしきりに掻(か)いている。左脚がひどく震えてベッドまで一緒に揺れている。アルコールの離脱症状であることは、太陽が東からのぼるのと同じくらい確実だ。

 エルディンはその兆候にまったく気づいていない――気づかなくても、意外でもなんでもない。メディカルスクールとはそもそも現実に対して備えるように設計されていない。一年目は体の仕組みを学ぶ。二年目はその仕組みがどのように壊れるのかを理解するのに費やされる。三年目には患者を診ることを許されるが、無駄にサディスティックに見えることもままあるほど厳しい指導医(アテンディング)の監督下でなければならない。四年目には最悪の美人コンテストにも似たマッチングというシステムがはじまり、研修先が一流の大病院になるのか、それともどこともしれない田舎の動物病院にも等しいクリニックになるのかが、この一年で決まる。

 エルディンは、アトランタ唯一の公立病院であり、患者数では合衆国屈指のレベルⅠ外傷センターであるグレイディ病院に決まった。インターンと呼ばれているのは、研修一年目だからだ。残念ながらその呼び名すら、彼の自信満々な思いこみを修正することはできない。サラの見たところ、患者の腕に覆いかぶさるようにして麻酔をかけはじめたエルディンの頭は、すでに集中力を失っていた。おそらく今夜の食事か、電話をかける女の子のことを考えているのか、あるいは家一軒分にも相当する数種の学生ローンの利子を計算しているのかもしれない。

 サラは看護師長の視線をとらえた。ジョーナもエルディンを見ているが、看護師の例に漏れず、ひよっ子ドクターには失敗から学ばせるつもりのようだ。そしてそのときは近づいている。

 患者が不意に体を起こして口をあけた。

「エルディン!」サラは叫んだが、遅かった。

 彼のシャツの背中に、消防車の放水ホースが噴射したかのように吐物がぶちまけられた。

 一瞬、エルディンはたじろいだが、すぐに空嘔(からえずき)しはじめた。

 サラはナースステーションの椅子に座ったまま、患者がつかのまほっとした顔になってまたどさりと仰向けに倒れるのを見ていた。ジョーナはエルディンを脇へ引っ張っていき、幼児を相手にしているように叱(しか)った。サラには、エルディンの屈辱の表情に見覚えがあった。サラもここグレイディで研修を受けた。似たような小言を食らう側だった。メディカルスクールでは、こんなふうにして本物の医師になっていくのだとは教えてもらえない――屈辱とゲロによって本物の医師になれるとは。

「サラ?」テッサに呼ばれた。「ちゃんと聞いてる?」

「聞いてる。ごめん」サラは妹の話に注意を戻そうとした。「なんの話だっけ?」

「だから、満杯のゴミ箱に気づくのがそんなに難しいことなのかって話」テッサはほとんど息継ぎもせずにつづけた。「わたしだって一日中働いてるのに、家に帰って掃除をしてしかも洗濯物をたたんでしかも食事を作ってしかもゴミを出すのはわたしじゃなきゃだめなわけ?」

 サラは口をつぐんでいた。テッサの愚痴(ぐち)はいまにはじまったことではなく、意外でもなんでもなかった。サラはレミュエル・ウォードほど利己的な人間をほかに知らない。大人になってからずっと医療業界にいるサラがそう考えるのであれば、その事実は多くを物語っている。

「なんだか知らないうちに『侍女の物語』の世界に放りこまれたみたい」

「それって映画のほう、それとも本のほう?」サラは辛辣な口調にならないようにしたが、難しかった。「ゴミ出しのシーンがあった記憶がないんだけど」

「ゴミ出しから地獄がはじまるかもしれないでしょ」

「リントン先生?」看護助手のキキがカウンターをノックした。「三番の患者さんがもうすぐレントゲン室から戻ってきます」

 サラは〝ありがとう〟と口を動かして伝え、タブレットでX線写真を確認した。三番の患者は三十九歳のディーコン・スレッジハンマーと自称する統合失調症患者で、首にゴルフボール大の腫れもの、三十九度近い熱と悪寒がある。長年ヘロインに依存しているとみずから認めた。両脚、両腕、両足、胸、腹の血管がつぶれてしまったので、いわゆる〝スキンポッピング〟、つまり皮下注射に切り替えた。その後、頸静脈(けいじょうみゃく)か頸動脈に直接注射するようになった。X線写真には、サラの予想どおりのものが写っていたが、当たっていたからといってうれしくもなんともなかった。

「わたしの時間もあいつの時間と同じくらい大事なのに」テッサが言った。「ほんとムカつく」

 サラもそう思うが、返事はせずに救急外来のなかを歩いていった。普段、夜のこの時間帯は銃創や刺し傷や交通事故による怪我(けが)や薬物の過剰摂取(オーバードーズ)、そして相当数の心臓発作の患者でいっぱいになる。だが、この日は雨のせいか、ブレーブスがレイズと競り合っているせいか、ありがたいほど静かだった。ベッドはほとんど空(あ)いていて、機器のハム音や電子音のほかにはときおり話し声がする程度だ。サラは厳密には小児科の指導医だが、同僚の医師が娘の科学フェアに付き添えるように代わってやったのだった。十二時間勤務がはじまってそろそろ八時間たつが、いまのところ今夜の山場はゲロをぶちまけられたエルディンだ。

 そして正直なところ、あれはちょっと笑えた。

「母さんは味方になってくれないしさ」テッサはつづけた。「〝最悪の結婚も結婚には変わりない〟としか言わないの。意味がわからなくない?」

 サラは質問を聞き流し、ボタンを押してドアをあけた。「テッシー、やっぱり彼と一緒にいて幸せじゃないのなら――」

「幸せじゃないとは言ってないでしょ」テッサはむきになったが、彼女の口から出る言葉はことごとくその反対を示していた。「ただ不満があるってだけ」

「結婚生活ってそんなものよ」サラはエレベーターホールへ歩いた。「相手にもう一度さらっと言えばすむことが、前にも言ったでしょうとくどくど文句を言うようになる」

「それってアドバイス?」

「アドバイスにならないように細心の注意を払ってたんだけどね。ねえ、こんなこと言ってもしかたないけど、うまくいく方法を見つけるしかないよ、それができないなら終わり」

「姉さんはジェフリーとうまくいく方法を見つけたんだ」

 サラは思わず胸に手を押し当てたが、自分が夫を失ったことを思い出すたびに感じていた鋭い痛みは、月日とともにやわらいでいた。「わたしがあの人と離婚したのを忘れてる?」

「そっちこそあのときわたしがそばにいたのを忘れてる?」テッサはすばやく息を継いだ。「姉さんはうまくいったじゃない。ジェフリーと再婚したんだもの。幸せそうだった」

「ええ」サラは否定しなかったが、テッサの問題の根幹は夫の浮気などではなく、ましてやあふれたゴミ箱でもない。彼女を尊重しない男と結婚したことだ。「あなたに隠しごとはしない。万能の解決法なんてないの。人間の関係はひとつとして同じじゃないんだから」

「わかってる、でも――」

 テッサの声が途切れたと同時に、エレベーターの扉がひらいた。遠くの電子音や機器の音が消えた。サラは空気がびりびりと震えたような気がした。

 エレベーターの奥に、ウィル・トレント特別捜査官が立っていた。スマートフォンを覗きこんでいるので、サラはひそかに彼の姿に見惚(みほ)れることができた。引き締まった長身。広い肩。チャコールグレーのスリーピースのスーツも長距離走者の体つきを隠すことはできない。砂色の髪は雨で濡(ぬ)れている。左眉からジグザグの傷痕。口の上にも傷痕がある。サラは、その傷痕に唇をつけたらどんな感じがするだろうかと、甘い想像をするのを自分に許した。

 ウィルが目をあげた。サラにほほえみかける。

 サラも笑みを返した。

「もしもし?」テッサが言った。「ちゃんと聞いてる――」

 サラは電話を切ってポケットに突っこんだ。

 ウィルがエレベーターから出てきたとき、サラはこんな偶然もあるのだからもっと見てくれをよくする努力をすべきだったと後悔し、おばあさんのように頭のてっぺんで雑にまとめた髪から、夕食のときに白衣にこぼして適当に拭き取ったケチャップの染みまで、努力が足りなかった部分を心のなかで列挙した。

 ウィルの目が染みをとらえた。「今日の夕食は――」

「血よ」サラはさえぎった。「血がついたの」

「ケチャップじゃなくて?」

 サラはかぶりを振った。「わたしは医師だから……」

「ぼくは捜査官だから……」

 ふたりそろってにんまりと笑ったとき、サラはウィルのパートナーのフェイス・ミッチェルがエレベーターに乗っていたばかりか、ほんの五十センチほど離れた場所に立っていることにようやく気づいた。

 フェイスは大きなため息をついてからウィルに言った。「ちょっと話を聞いてくる」

 彼女は病室のほうへ向かい、ウィルは両手をポケットに突っこんだ。床をちらりと見おろし、サラに目を戻し、次に廊下の先を見た。沈黙を気まずくなるほど長引かせるのは、ウィル特有の才能だ。彼は信じられないくらい不器用なのだ。サラまで彼のそばにいるとめずらしく口ごもってしまうせいで、ますます沈黙がつづく。

 サラは無理やり声を発した。「久しぶりね」

「二カ月ぶりだ」

 いつ以来かウィルが知っていたので、サラはばかみたいに浮かれた気分になった。そのつづきを待ったが、もちろん彼は黙っている。

「どうしてここに来たの? 事件の捜査?」

「そうなんだ」ウィルはホームグラウンドに立ててほっとしたように見えた。「芝刈り機をめぐって喧嘩(けんか)になって、隣人の指をちょん切ったやつがいてね。警官が駆けつけたら、そいつは車に飛び乗ってそのまま電柱に激突した」

「本物の天才犯罪者ね」

 ウィルが突然声をあげて笑ったとたん、サラの心臓はおかしな宙返りをした。サラは彼にもっと話させようとした。「でも、そういうのはアトランタ市警の管轄で、ジョージア州捜査局(GBI)が担当するものじゃないでしょう」

「指ちょん切り男は、うちがずっと追っているドラッグの売人の手下なんだ。いろいろしゃべらせたくてね」

「供述と引き換えに刑期をちょん切ってやるって持ちかけるのね」

 今度は彼の笑い声は少しもおもしろそうではなかった。冗談は通じず、紙やすりのようにざらついた雰囲気が漂った。

 ウィルは肩をすくめた。「そうだよ」

 サラは首にじわじわと赤みがのぼってくるのを感じた。もっと安全な場所を必死に探した。「わたし、患者さんがレントゲン室から帰ってくるのを待ってたの。いつもエレベーターのそばをうろついてるわけじゃないのよ」

 ウィルはうなずいただけで、また気まずい沈黙が轟音(ごうおん)をあげて戻ってきた。彼は鋭角的な顎の先に沿って走る薄い傷痕を指でこすった。結婚指輪が警告灯のようにきらりと光った。彼は指輪に気づいたサラに気づいたらしい。ポケットに手を戻した。

「それより」サラは頬が炎をあげる前に切りあげようとした。「フェイスが待ってるでしょう。また会えてよかったわ、トレント捜査官」

「ではまた、ドクター・リントン」ウィルは軽くうなずいてから立ち去った。

 サラは未練がましく彼の後ろ姿を見つめてしまわないようにスマートフォンを取り出し、さっきは急に電話を切って悪かったと妹にメッセージを送った。

 二カ月ぶり。

 ウィルはサラの連絡先を知っているのに、連絡してこなかった。

 もっとも、サラも彼の連絡先を知っているのに、連絡しなかった。

 サラは心のなかでいまの短い会話を再現したが、また顔が赤くならないように〝ちょん切ってやる〟のジョークは飛ばした。ウィルがこちらの気を引こうとしているのか、失礼にならないようにしているのか、そして自分は迂闊(うかつ)にも必死になりはじめているのか、よくわからない。わかっているのは、ウィル・トレントは妻帯者であり、その妻はときどき姿を消す癖のある、とんでもないビッチという評判の元アトランタ市警の刑事であるということだ。それなのに、彼はいまだに結婚指輪をはずさない。

 サラの母親の言うとおり、最悪の結婚も結婚に変わりないということだろうか。

 幸い、エレベーターの扉がひらいて、サラはそれ以上うさぎ穴の深みに落ちていかずにすんだ。

「やあ先生」ディーコン・スレッジハンマーはぐったりと車椅子にもたれていたが、サラのために体を起こそうとした。患者衣を着て黒いウールのソックスを履いている。首の左側の真っ赤な腫れものが痛々しい。両腕にも両足にもひたいにも、長年の皮下注射による丸い痕が散っている。「おれのどこが悪いのかわかったか?」

「ええ」サラは看護助手から車椅子を引き継ぎ、ウィルのほうを振り返らないよう、ロトの妻のように我慢しながら廊下を進んだ。「首に折れた注射針が十二個残ってた。それが膿(う)んでしまった。だから首が腫れて、ものを飲みこむのがつらいの。深刻な感染を起こしてる」

「ふうん」ディーコンはざらざらした音をたてて息を吐いた。「死んでもおかしくないって感じだな」

「そうね」サラは彼に嘘をつくつもりはなかった。「手術で折れた針を取り除いてから、最低でも一週間は入院して抗生物質を点滴で投与する。禁断症状にも対処しなければならないし、どれも簡単なことではないわ」

「くそ」ディーコンはぼそりとつぶやいた。「先生もときどき来てくれるか?」

「もちろん。明日は休みだけど、日曜日は一日中いるから」サラはバッジをかざしてドアをあけた。とうとうウィルのほうを振り向くのを自分に許した。彼は廊下の突き当たりにいた。サラは、彼が角を曲がって消えるのを見送った。

「あの人が靴下をくれたんだ」

 サラはディーコンに向きなおった。

「先週、議事堂のそばにいたんだが」ディーコンはいま履いているソックスを指差した。「くそ寒くてね。あの人は靴下を脱いでおれにくれた」

 サラの心臓はまたおかしな宙返りをした。「親切な人ね」

「ポリ公は靴下に盗聴器を仕掛けたんだ」ディーコンは唇に人差し指を当てた。「黙ってたほうがいいぞ」

「了解」命を脅(おびや)かす感染症に冒された統合失調症患者にあれこれ言い返す気はない。以前もサラが赤褐色の髪で左利きであるせいで、話がひどく長引いたのだ。

 サラは車椅子を三番のベッドのほうへ向け、ディーコンがベッドにあがるのを手伝った。彼の両腕は木切れのように痩(や)せ細っていた。栄養が足りていない。髪にはべとついたなにかと土埃(つちぼこり)がこびりついている。歯は何本かなくなっている。まだ四十歳にもなっていないのに、六十歳に見え、身のこなしは八十歳のようだ。サラの見たところ、この冬を生き延びるのは難しそうだった。ヘロインか寒さか、また別の重い感染症か、そのどれかで生命を落とすだろう。

「先生がなにを考えてるのかわかってる」ディーコンは老人のうめき声をあげてベッドに仰向けになった。「おれの家族に連絡しようと思ってるんだろ」

「連絡しましょうか?」

「いや。福祉にもつながないでくれ」ディーコンは腕を掻き、丸い傷痕に爪を食いこませた。「なあ、おれはろくでなしだよな?」

「わたしはろくでもないことはされていませんけど」

「ああ、先生はいい日のおれしか見てないからな」彼の声が詰まった。自分に明日は来ないかもしれないと身に染みてわかったのだろう。「メンタルはこんなだし、依存症だし。たしかにおれはクスリが好きだが、ほかのやつには勧めないね」

「あなたは運が悪かった」サラは努めて穏やかな口調で言った。「だからといって、あなたが悪い人間になるわけじゃない」

「ああ、でも家族には迷惑をかけた――家を追い出されてからこの六月で十年になるが、家族を責めるつもりはない。おれは追い出されて当然だ。嘘をつき、盗みを働き、裏切り、暴力を振るった。な、言っただろう――ろくでなしだ」

 サラはベッドの手すりに肘をついた。「わたしにできることはある?」

「おれがくたばったら、お袋に電話をかけて知らせてくれないか? 悲しませたいわけじゃない。ほんとのところ、ほっとするんじゃないかと思うんだ」

 サラはポケットからメモ帳とペンを取り出した。「お母さんの名前と電話番号を書いて」

「おれは怖がらなかったと伝えてくれ」彼の筆圧は強く、サラにはペン先が紙を引っ掻く音が聞こえた。彼の目尻に涙がにじんだ。「お袋を責めていなかったことも。それから――愛してると言っていたと伝えてくれ」

「そんなことにならないのがいちばんだけど、もしそうなったら電話をかけると約束する」

「そうなってからでいいんだ。おれがまだ生きてるって知らせる必要はない。でも、もしもおれが……」彼の声が途切れた。震える手でメモ帳とペンをサラに返した。「おれの言いたいこと、わかるよな」

「わかる」サラは彼の肩にちょっと手を置いた。「外科に連絡してくるね。カテーテルを入れて、薬で痛みをやわらげましょう」

「ありがとう、先生」

 サラはベッドを離れてカーテンを閉じた。ナースステーションに入ってスマートフォンを取り出し、外科に相談のメッセージを送り、中心静脈カテーテルのオーダーを出した。

「あの」エルディンはシャワーを浴びて新しいスクラブに着替えていた。「さっきの酔っ払いにジアゼパムを静注しました。ベッドで待ってます」

「総合ビタミンとチアミン五百ミリをくわえて――」

「ウェルニッケ脳症の予防ですね。いい考えだ」

 ゲロの噴射を受けたばかりの人間にしてはやや自信がありすぎではないかと、サラは思った。彼の指導医として――今夜だけではあるが――間違った考え方を正すのが自分の仕事だ。

「エルディン、いまのはわたしの考えではなくて、決まった治療手順なの。発作を予防して患者を落ち着かせるための手順。アルコール依存症の治療はつらいの。あなたの患者も見てのとおり苦しんでるでしょう。あの人は酔っ払いじゃない。アルコール依存症と闘っている三十一歳の男性なの」

 エルディンは殊勝にも恥ずかしそうな顔をした。「はい。そのとおりです」

 小言はまだ終わりではない。「看護師のノートは読んだ? 詳細な社会歴が書いてあるよ。患者さんは一日にビールを四、五本飲むと自己申告してる。去年、ある経験則を習わなかった?」

「患者が摂取しているアルコールの量は自己申告の二倍」

「そのとおり。あなたの患者さんは、お酒をやめようとしたとも言ってる。三日前にいきなり飲むのをやめた。カルテにもそう書いてあるよね」

 エルディンの表情は羞恥(しゅうち)から怒りに変わった。「どうしてジョーナは教えてくれなかったんですか?」

「どうして彼女のメモを読まなかったの? どうして自分の患者に明らかな新型インフルエンザの症状があって、しかも肌を這いまわっている幻の蟻(あり)を掻きむしっていることに気づかなかったの?」サラが見ていると、彼もさすがにまた恥ずかしそうな顔になった。自分に落ち度があったのを認めたのだ。「今回のことから学んで、エルディン。次はもっと丁寧に患者さんを診てね」

「はい。すみませんでした」エルディンは深く息を吸い、ふうっと吐き出した。「ああ、こんなのでほんとにやっていけるのかな」

 サラは彼を落ちこんだままにしておけなかった。「わたしが指導医に言われたことを教えてあげる。〝きみは医師として稀(まれ)に見る逸材か、そうじゃなければきみを監督しているとんでもない切れ者をだませるほどの怪物だよ〟」

 エルディンは笑った。「ひとつ訊(き)いてもいいですか?」

「どうぞ」

「先生もここで研修したんですよね?」彼はサラがうなずくのを待った。「ニガード先生のもとで専門医研修(フェローシップ)を受けるはずだったと聞きました。小児心臓外科。めちゃくちゃすごいじゃないですか。どうして辞めたんですか?」

 サラが答えをひねり出そうとしたとき、また空気が変わるのを感じた。先ほどエレベーターの奥にウィル・トレントが立っているのを見たときに感じたびりびりした空気ではない。経験を積んだ医師としての直感が、今夜はこれから忙しくなると告げていた。

 突然、救急車専用駐車場に通じるドアがひらいた。ジョーナが廊下を走っていく。「サラ、おもてで自動車事故が起きたの。メルセデスが救急車に衝突した。いま被害者を車から救出してる」

 サラはエルディンを従えて足早に外傷救急処置室(トラウマ・ベイ)へ向かった。彼が不安をつのらせているのを感じ、冷静な声で話しかけた。「わたしの言うとおりにしてね。邪魔しないでくれればいいから」

 滅菌ガウンを着たと同時に、患者を固定したストレッチャーが入ってきた。ストレッチャーを押してきた救急救命士たちは雨でびしょ濡れだった。ひとりが詳細を説明した。「ダニ・クーパー、十九歳、女性、意識消失により自動車事故、胸痛あり、息切れあり。時速四十五キロで救急車に突っこみました。腹部の傷は表面的なものに見えます。血圧は上八十、下四十、心拍は百八。左胸の呼吸音が弱く、右はきれいです。現在は見当識があります。右手に生理食塩水を静注」

 にわかにトラウマ・ベイが人でいっぱいになったが、ひとりひとり異なる振り付けでバレエを踊っているかのようだった。看護師、呼吸療法士、放射線技師、医療記録者。だれもが役割どおりに動いていた。血管を確保する者、血液ガスを測定する者、血液型を調べる者、患者の衣服を切る者、血圧計のカフを巻く者、パルスオキシメーターを装着する者、心電図の電極を取り付ける者、酸素マスクを装着する者、だれがなにをしたのかを記録する者。

 サラはてきぱきと指示を出した。「血液生化学検査と全血算(CBC)、胸部と腹部のX線、輸血が必要になるかもしれないから、大量静注用のルートをもう一本確保して。カテーテルを入れて尿分析を開始して、薬物スクリーニングもね。頸部と頭部のCTも。心臓血管外科に待機をお願いして」

 救急救命士が患者をベッドに移した。若い女性の顔は真っ青だった。歯をカチカチと鳴らし、目を見ひらいている。

「ダニ」サラは話しかけた。「医師のリントンです。これからあなたを治療するからね。なにがあったのか教えてもらえる?」

「く、く、車……」ダニはかろうじてかすれた声を発した。「目、目が、覚めたら、車のなか……」

 歯の根が合わず、そこまで言うのが精一杯らしい。

「大丈夫よ。どこが痛む? 教えてくれる?」

 サラはダニが腹部の上左側のほうへ手を動かすのを確認した。左胸の下側にある浅い裂挫創には、救急救命士がすでにガーゼを当てていた。だが、怪我はそれだけではなかった。ダニの上半身には、おそらくハンドルが強くぶつかったとおぼしき赤黒い痣(あざ)があった。サラは聴診器をダニの腹部に当て、次に両肺の音を聞いた。

「腸の音は異状なし。ダニ、深く息を吸ってくれる?」

 苦しそうなぜいぜいという音がした。

 サラはスタッフたちに告げた。「左肺が気胸を起こしてる。胸腔チューブ用意。ドレナージトレーください」

 ダニの目は、忙(せわ)しなく立ち働く人々を追おうとしていた。棚の扉があき、トレーにさまざまな器具が載せられる――滅菌ドレープ、チューブ、ベタジン、滅菌手袋、メス、リドカイン。

「ダニ、大丈夫だからね」サラは身を屈め、周囲の慌ただしさから患者の注意を引き戻そうとした。「こっちを見て。あなたの肺はつぶれてるの。これからチューブを入れて――」

「わ、わたし……」ダニは必死に息を吸おうとした。彼女の声は騒々しい物音にかき消されそうだった。「逃げてきた……」

「わかったわ」サラはダニの髪を後ろに梳(と)かし、頭部に外傷がないか確かめた。ダニが現場で気を失っていたのは、なにか理由がある。「頭は痛む?」

「はい……ずっと……じんじんして……」

「痛むのね」サラはダニの瞳孔を調べた。明らかに脳震盪(のうしんとう)を起こしている。「ダニ、どこがいちばん痛い?」

「あ、あいつにやられた。たぶん……わたしレイプされた」

 サラは大きな衝撃を感じた。周囲の雑音が消え、ダニの張りつめた声だけが聞こえるようになった。

「飲みものに薬を盛られた……」ダニは唾を呑みこもうとしてむせた。「目を覚ましたら、あいつが……上にいて……車のなかにいて、いつ乗ったのか覚えてなくて……」

「だれに? だれにレイプされたの?」

 ダニのまぶたが震えながら閉じはじめた。

「ダニ? しっかりして」サラはダニの顔に手を添えた。唇が色を失っていく。「胸腔チューブください」

「あいつを止めて……お願い……止めて」

「だれを止めるの? ダニ? ダニ?」

 ダニの瞳がサラの目をとらえ、わかってくれと無言で懇願している。

「ダニ?」

 また彼女のまぶたが震えながら閉じた。そして、動かなくなった。頭ががくりと横に落ちた。

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続きは本書でお楽しみください。


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