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国語教育で何を学ぶのか。

小学校の6年間で学習する国語の総時間数は、1461時間にのぼる。算数が1011時間、体育が597時間、理科が405時間、社会が365時間ということで、小学校において国語教育はかなり大きなウェイトを占めている。国語では何を学ぶのか、発達段階に応じた学びとは何なのか、教員が国語教育に苦戦する理由について考えていこうと思う。

国語教育は意味がないのか

算数・理科・社会などの教科は、筆算の仕方を学んだり、沸点の温度を調べたり、歴史上の人物を覚えたり、学習することが明確である。それに対して、国語という教科は学習する中身がぼんやりしているように思う。それは、「日本語」という自分たちが日常生活で当たり前のように使用しているものを学んでいるからだ。普通に使えているものを、わざわざ学習する必要はないように感じるのは当然のことのように思う。そのため、「なぜ国語の授業があるのか分からない」「国語の授業は意味がない」と感じている人が多いのだろう。

国語を教える側も、国語教育を難しく感じている人が少なくない。国語が専門の教員ならまだしも、私のように理科が専門の教員や、体育が専門の教員は、大学でも国語の教育法についてはほとんど学んでいない。さらに悪いことには、「国語なんて意味ない」と、教える本人も心の中で思ってしまっている。

国語は考える土台、共感の土台を形成する

国語は何のためにあるのかというと、自分が考えるため、誰かから共感を得るためだと私は思う。人は考えるときに、必ず言葉を使う。文章に書かずとも、考えるときは頭の中で言葉を使っている。日本人の場合、その言葉は日本語であり、それを学ぶのが国語の授業である。国語力のない人が、英語での日常会話を難なくこなせる場合はある。しかし、国語力のない人が、英語の論文が読めることはない。反対に、国語力のある人は、語彙や文法さえ覚えてしまえば、どの言語の難解な文章も読めるようになる。つまり、国語力の限界が、思考の限界なのである。

また、自分の経験や思いに適切な言葉を当てはめられる限界が、共感を得てもらえる限界なのだと思う。「楽しかった」「良い感じ」という言葉ではなく、もっと自分の感覚に適切な言葉がないか探すことで、自分の経験や思いにより近い感覚を、相手に伝えることができる。それが深い共感をよぶことに繋がるのだと思う。

低学年では語彙、高学年では文章全体に焦点を

国語力をつけるためには、ただ読書をすれば良いというわけではないと、私は思う。私が担任していたクラスで、読書をたくさんしているのに、国語力がない子どもが何人かいた。その子たちの読書の様子を見ていると、どうも絵ばかり熱心に見ていたり、「ガチャガチャ」とか「チョンチョン」とかいう擬音語・擬態語に喜んでいたりするだけのようだった。楽しそうなことは良いことなのだが、国語力をつけるためには不十分だろう。

教材文を通して、文章の読み方や書き方を学習するのが、国語の授業だ。国語の授業では、一つ一つの語彙や文章構造について学習をして、教材文に対する理解を深めていく。「小学校低学年における読書量、語彙力、文章理解力の関係」(猪原ほか2013)によると、低学年では読書から語彙力を、高学年では読書から文章理解力を習得する傾向があるらしい。

確かに、私が低学年の児童を教えていたときにも、子どもたちの圧倒的な語彙の少なさを実感した。国語の授業では、「ぐんぐん」というような言葉を、体を使って表現したり、それを使って文章を作ったり、といった活動を頻繁に取り入れた。ただ話を聞いて学習するのではなく、活動を取り入れることで、子どもたちも喜んでいた。

一方で、低学年では、「はじめ」「中」「おわり」というざっくりとした文章構造を学習するが、まだ、文章の各部分と全体との関係を学習するには、難しい児童も多いという印象が確かにあった。各段落の主張や、文章の主題についてまとめるといった活動や、段落同士の関係を掴むといったは、高学年になってからしっかりと行うのが良いのかもしれない。

先生による指導力の差

このように言う私も、国語教育の意味について、教員をしていた当時は深く考えていなかった。教員には指導書というものがあり、それに沿って授業をすれば一応形にはなるのだが、それでも、ベテランの先生との差は顕著だった。テストの平均点は私とベテランの先生とでほとんど変わらないのだが、子どもたちが書く文章に差があった。ベテランのクラスの先生の子どもの方が、明らかに言葉の選び方がユニークで、最後まで首尾一貫した文章を書いていた。

差があるのは、成果物だけではない。授業中の子どもたちの様子が、生き生きしていた。好きな教科アンケートをとると、私のクラスでは図工や音楽などが多かったのに対して、ベテランの先生のクラスでは、国語を選択している子どもが多かった。国語というのは、本来子どもたちにとって、楽しいものなのだ。国語は小学校において最も重要な教科でありながら、指導力の差が最も顕著になる教科なのだと思う。

公教育は、全ての子どもに平等な教育を受けさせることが前提となっているが、やはり先生のレベルは均質ではない。ベテランの先生も、若手の時は今のような授業は行えていなかっただろうし、ベテランの先生のクラスの子どもたちも、義務教育課程の中で、ずっと国語の授業が上手な先生に当たるわけではない。しかし、国語の授業が上手な先生のもとで1461時間の国語の授業を受けた場合、子どもたちにはどれほどの力が付いているのだろう。

国語教材研究の課題(特に若手教員の場合)

小学校で最も多くの時間を割く国語の授業が、教員にとっても子どもにとっても楽しいものになるためには、深い教材研究をする必要がある。しかし、いざ教材研究をしようと思っても、欲しい情報がない場合が意外とある。テクニック的な情報は多いのだが、なぜこの教材文を学習し、なぜこの問いを立てるのかという、根本的で包括的な疑問が解決できる情報源がない。そのために、一応授業の流れはできるが、教員側が真に納得し切れていない場合が多いと思う。納得し切れていないものを教えても、子どもたちに伝わるわけもなく、寂しい国語の授業になってしまう。

大学の教員養成課程の中で、国語教育についてほとんど学習していないことが、第一の課題なのだと思う。子どもとの関わり方や、専門科目についての授業は多かったのだが、国語教育を学んだ記憶というのはほとんどない。小学校においては、国語の授業がベースになるので、全ての教員が専門科目と同様なくらい、大学で国語教育を深く学習する必要があるのではないだろうか。

そして、意外にも情報源が少ないこと、良い情報が表に出ていないことが第二の課題だと思う。教材研究のサイトとしてはTOSSが有名なのだが、評判はよろしくない。良質な情報は、国語の授業が得意な現場の先生の個人ブログみたいなものや、現場の先生が書いた論文などに隠れている場合が多い。しかし、それらは中々検索にヒットせず、見過ごされてしまっている。現場の若い教員が、情報収集に割ける時間はそれほど多くない。素早く多くの良質な情報にアクセスできる媒体があって欲しいと思う。

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