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罪の季節 ep.4

「俊哉く―ん。まだー? トイレ、長くねー」
 だらだらと潔くない。やっと終わって、おれは手を洗って、外で待っていてくれた翼と継介と合流する。
「何でそんな長いの?」
 そう言って、翼はおれに教科書とエプロンを渡す。次の授業は、家庭科室で調理実習だ。
「知るかよ。最近、長くなってきた。不思議だなあ」
 三人で並んで、家庭科室へと進んでいく。
「老化の始まりじゃね?」
 継介が思いついたように、言った。いや、本当に思いついたのだろう。
「老化?」
「だって、年寄りとかオッサンって、おしっこ長いじゃん。年取ると、だんだん長くなる――」
「はー、マジかよ。老化? 超ヤダな、それ」
「俊哉がオッサンになるとか、想像できねー!」
「いや、想像すんなよ。高一でオッサンとすぐ結びつく人なんかいないだろ」
 三人でゲラゲラと笑い声を響かせながら、いくつかの教室を通り過ぎていく。
 チャイムギリギリで家庭科室に着いた。
 家庭科の席は、事前にクジ引きで決められている。黒板を見て、自分の名前を見つける。
「俊哉、馬場と一緒じゃん」
 継介が耳打ちする。言われるまでもなく、気付いていた。すでにその席に座って、同班の女子と一つのテーブルを囲んでいた。女子たちは嫌そうだ。
 馬場の隣に座る。女子たちに、「よろしく」と声をかける。「よろしく、桜井」と、わりかし明るい声が返ってくる。
 馬場には何も言わなかったら、向こうから話しかけてきた。
「よろしく。おれ、料理苦手だから。桜井、得意そうだな。はははっ」
 最後にまた、一人で笑う。
 おれは彼の顔を見ることもなく、すなわち無視した。愛美にわざわざ忠告されたのだ。愛美にその話を持ち込んだ誰かの考えを改めるためにも、素っ気ない対応を見せつけておかないと。
 同じ班の女子たちは、クスクスとこらえるような笑い声を漏らしている。
 調理が始まった。おれは一緒にふざける相手もいないから、黙々と作業をこなすことにした。
「桜井、さっき華麗に無視してたね」
 人の悪い笑顔を浮かべて、女子が話しかけてきた。塚本昌恵だ。中学から同じで、気心はわりと知れている。思ったことを何でも口にするタイプで、声も大きい。ついでに、バンドのボーカルをやっている。性格はいいとは言えないのだが、顔は悪くない。それに、仲良くしておけば問題はない。
「ああ、馬場のこと? 何か、あいつうざいんだよね」
 塚本は楽しそうに手を叩く。
「分かる、ってか臭いよね」
 彼女はもう、声を潜めていなかった。馬場にも聞こえるように、臭いことを強調した。他の女子もクスクス笑っている。馬場は――と窺ってみて、驚愕した。彼は、どういうことか分かっていないのか、そのときも笑っていた。まるで、楽しいことを仲間同士で共有したかのように。
 さすがにおれは、彼に対して薄気味悪さを感じた。
「料理が不味くなりそう、って感じ」
 塚本は調子に乗って、重ねて言う。
「もう、マジ勘弁して欲しいよね。自重して下さい、って感じ」
 考えるより先に、そんな言葉が口をついて出る。塚本と共犯者めいた笑いを交わす。
 彼を疎外する雰囲気は、完全に定着していた。もう、誰もそのことに異を唱えなかった。学校の中では、みんなが正しいと思ったら、常識的にどんなに間違っていることでも「正しい」に変わってしまう。こうして、いとも簡単に。


 最近、席替えをして、窓際の席を得た。しかも、継介と近い。おかげで、翼は不満そうだったが。
 外を見ているのは飽きない。人がいてもいなくても、何となく見ているだけで充分だ。天気も関係ない。晴れ渡っていても、どんよりと灰色の物体が覆っていても、大雨でも構わない。
「……すぐそこなんだが……いじめが……」
 司馬先生の話し声が途切れ途切れに耳に届く。そうだ、今はホームルームの時間だった。近所の学校でいじめがあったらしいことを語っている。
「まあ、ウチの学校の生徒はみんな、人のことを考えられる人たちだからな。いじめなんかないだろう。いやー、こう言っちゃ何だが、おれは恵まれていたな」
 クラス内で笑いが起こる。先生は顔を赤くして、片手を頭の後ろにやっている。重ねて、みんなが囃したてる。

 先生は何にも分かっていない。この学校どころか、あんたのクラスでいじめが起こっているよ。恵まれてなんかいない。気付いていないだけだ。おれは呆れた。でも、表面上は笑っていた。
 席が遠いせいで、馬場の表情が窺えないが、きっとあいつはまた笑っている。
 たとえばだが――たとえるのは、現実としてはありえないと思うからだ――司馬先生が本当はいじめに気付いていて、それに対して自己解決を促す意味で、「いじめなんかないだろう」と白々しいことを言ったとする。でも、その言葉で罪悪感や後ろめたさを覚える人はこのクラスにいない。おれ自身、覚えない。感じた人がいたとしても、行動に移す人はいないだろう。だから、仮説だとしても、その解決方法は不適当だ。
 この一連のいじめの全容を把握している第三者がいたら、お前たちは間違っている、と言って、馬場以外のおれたちを叱りつけるだろう。でも、おれたちは間違っていることに考えが及ばない。別に、当たり前のことだからだ。それが、いじめっていうものだからだ。
 いじめを押し進める真の犯人は、いつも一人じゃない。数人、またはクラス全体の人たちが自然にその雰囲気を作っていく。率先していじめを断行する人がいても、見て見ぬ振りをする人がいたら同罪だ。いじめに関わっている人たちは、等しく同じ罪を負っている。
 だから、特定の一人を裁くのが難しい。担任の先生の責任だ、と声高に、正義感を振りかざして言う人もいるだろう。監督不行き届きだ、と続けるだろう。でも、先生も同罪だ。いや、もしかしたら、生徒より罪は軽いかもしれない。
 そして今現在、おれたちが作り上げた雰囲気が、馬場を確実にいじめていた。


 図書館で、愛美とおれはテスト勉強をしていた。テスト二週間前になったら、学校帰りにこうして一緒に勉強するのが、中学時代からの習慣となっている。隣に並んで、それぞれがやりたい教科の問題を解き、たまにおれは愛美に教えてもらう。愛美はおれよりずっとマジメだし、成績もいい。
 高校受験のときも、こうして教えてもらったおかげで、同じ高校に進めた。
 でも、おれはいい点数を取りたくて愛美と勉強するわけじゃない。愛美と勉強したいのだ。正しくは、こうやって二人で静かに並んでいたいのだ。普段、時間を共有できないときがあると、不安になる。他の男にちょっかいを出されないか。あんなにかわいくて、性格もよかったら心配になるのは当然だ。
 だから、こんな風に誰の干渉を受け付ける余地もなく、二人きりでいられることに、おれは満足する。彼女とおれは一つであることを実感する。
 機械的な放送の声が、図書館の閉館時間になったことを告げた。これを聞くと、寂しくなる。ああ、もうこの時間はおしまいか、と。
「帰ろう」
 愛美は天使のような笑みで囁く。おれはただ、頷く。
 外に出ると、日がまだ暮れていなかった。まだ夕方と言える時間帯だ。図書館は、もっと時間を延ばしてくれてもいいのに。
 愛美と、ありきたりな会話を交わす。その言葉の中に特別な意味は必要ない。そんなものなくたって、おれたちは特別な何かで結びついているから。
 笑う度に、輝きを増す。歩く度に、短いスカートが優しく揺れる。首を傾げる度に、胸がきゅっとつままれるようになる。見つめ合う度に、心を全て見透かされているような心地になる。
「また、明日も勉強しよう。一人じゃ、なまけちゃうから」
 言われなくたって、そのつもりだ。
 そうだ、明日がある。二人でいられる時間は、日が沈んで、また昇ったら訪れる。それを待っていればいい。
 劇的なことは起こらない。明日はちゃんとやってくる――。


 昨日の夜、ケータイを確認して戸惑った。馬場から電話が来ていた。愛美と図書館にいた頃で、サイレントモードにしていたから気付かなかった。
 馬場と番号を交換したのは、高校が始まってすぐのことだ。向こうから言ってきた。おれは特に何とも思わず、交換してやった。おれから電話をかけることはめったにないだろうな、と思っていた。事実、一度たりともなかった。彼からもかかってくることはなかった。
 何だろう、と少し気になったが、その後、一回もかけていないようだから、大したことではないのか、と考え、放っておいた。
 そのことを、愛美と登校して、教室の前で別れて、馬場の席を見たときに思い出した。そのときまで、馬場から電話が来ていたことをすっかり忘れていた。
 馬場はまだ来ていなかった。登校するのは、いつも遅い方だった。遅刻するときも数回あった。朝に弱いらしい。
 その日は、翼と継介だけでなく、他のクラスの男子と一緒になってだべった。成り行きでそうなったわけだが、おかげでクラス内はテスト前とは思えないほど騒がしかった。眉をひそめている女子がいたかもしれない。
 チャイムが鳴る前に、自分の席に戻った。ぼんやりと外を眺めて、チャイムが鳴るのを待った。
 だけど、いつもはチャイムの前に教室に入ってくる司馬先生がなかなか来なかった。鳴っても来なかった。ひそひそと、訝っている声が交わされ始めた。何かあったのではないか。
 もう一つ、馬場が来ていなかった。こちらは、遅刻だろうと暗黙のうちに、認識が統一されていた。おれもそうだろうと思っていた。
 やがて、顔が青ざめている司馬先生が教室に入ってきた。少しざわついていた教室が、一瞬で静まり返る。
「……今日は……」
 先生は言葉を探しているようだった。スラスラと言葉の出てくる人ではないけど、こんなに言いよどんでいる姿を見るのは、初めてだった。
「……授業……なしにします」
「えっ」
 誰もが驚いた。続けて誰かが「どうしてですか?」と尋ねる。
 司馬先生は、青い顔を俯かせて、言葉を紡いでいったが、言い逃れをしているみたいで、明瞭としなかった。
 謎は残ったままだったが、仕方なくおれたちは下校した。


 真相が分かったとき、おれたちは言葉を失った。目の前が真っ暗になった。今度ばかりは、罪悪感や後ろめたさを覚えない人は皆無だった。
 だって、一人の死を突きつけられたのだから。
 馬場は、いじめを苦にして、自分の部屋で首を吊って自殺した。首を吊って死ぬなんて、今でもあるのか。
 馬場は笑っていたけど、心の中で傷付いていたのだ。毎日、重々しいカバンを肩にかけて登校する学校で、陰口を聞いて、避けられた。そんなの、わざわざいじめられに行くようなものじゃないか、と思いつつも、彼は学校に来ることをやめなかった。笑うことをやめなかった。
 おれたちは、彼が自ら命を絶ってから、自分たちの過ちを思い知った。悪いのは他の誰でもない、おれたちだけだ。
 クラスの女子の中には、白々しく泣いている人もいた。泣いたら許されると思っているのか? お前も同罪だよ。見知っていて、知らぬ素振りをしていたのだから。お前はあいつのために泣いているのではない、自分のために泣いているのだ。そう言ってやりたかった。だけど、おれにそんなことを言う資格はない。
 そして、電話が来ていたことに思い当たった。おそらく、あれがクラスの人たちの中で、馬場から電話を受けた最後だっただろう。その後、彼は悩みに悩みぬいた末、死を選んだのだ。
 どうして、おれに最期に電話をかけた?
 分かっているくせに。本当は、分かっているのだろう、桜井俊哉。
 馬場は、おれに止めて欲しかったのかな。あいつの中で、賭けたのかもしれない。おれがあいつにとって、どういう存在だったのかを思い知った。おれは当初、わりと普通に接していた。それだけで、彼の心の支えになっていたのかもしれない。それを、おれは愛美の忠告を受けて、あっさりやめた。無視するようになった。
 心の支えを失ったあいつは――死を現実のものにした。
 おれが殺したようなものだ。おれだけが原因ではないけど、最後にとどめを刺したのは、おれだ。


 おれは、立ち入り禁止になっている外階段でうらぶれていた。段差に背を預けて、虚ろな眼差しで遥か遠くの空を捉えていた。
 探していたのか、愛美がドアを開けて現れた。安心したように吐息を一つつき、おれの傍らに腰掛けた。
「探した」と、一言。
 おれは黙っていた。全身の力を抜いて、真っ白な頭であれこれ考えた。
 愛美もそれ以上は何も言わなかった。彼女も罪を――忠告という遠因を与えたことに対する罪を――感じているようだ。
「おれ」やっと言葉を見つけて、切り出した。愛美はおれの目を見つめた。「最期に――馬場から電話を受けたんだ。あいつ、おれに何て言いたかったんだろう……何て言って欲しかったんだろう……。愛美」
 愛美はおれの手を握る。いつもより、冷たい。
「おれが……おれがあいつをころ――」
「違うよ」
 愛美はおれを抱き締める。赤ちゃんをあやすように、背中を撫でる。
「違う、悪いのは俊哉だけじゃない。私だって、そう。誰か一人の責任にすることはできない」
 涙声で、おれの耳元で囁く。
 おれはその温もりを感じながらも、頭の中の空虚感は消えなかった。ずっと、同じことを繰り返し考えていた。
 当然のように、「終わっている」が浮かんだ。おれの人生、今まさに終わっているじゃないか。そうだ、上手くいってなんかいなかった。おれは楽観視していた。「終わっている」を考えているうちは、まだよかった。現実に「終わっている」の湖に身を浸しているときは、その冷たさに身を震わせてやまないだろう。
 二度と、出られないかもしれない。


 最後に馬場から電話を受けたことで、警察から少し事情を聞かれた。そうは言わなかったが、彼らはおれをいじめの主犯格と捉えていたのかもしれない。そう思われても、仕方ない。
 話の行きがかり上で知ったことだが、おれはその事実にますます罪悪感を覚えた。
 馬場は、首を吊りながらも、最期まで笑っていたそうだ。
 実際に見ていないから、どこまで信憑性があるか分かったものではない。たまたまそういう顔になったか、発見者にそう見えただけかもしれない。
 でも、おれは笑っていたと思う。
 縄に首を巻きつけ、苦しみながらも必死で笑顔を浮かべようとする馬場の姿が思い浮かぶ。その笑顔は、何よりもおれに期待していた証拠で、何よりもおれが抱く罪の重さを大きくするものだ――。

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