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『Ryuichi Sakamoto: CODA』を観て、「地に足着いた」とは何かを考えた #卒論の息抜き

昨日の朝に、卒論を書くためにスタバに行った。インスタを開き(卒論書かなきゃ)、ストーリーをパラパラ眺めていたら(卒論書かなきゃ)、福島で働く仲良しの友達が同じタイミングでスタバにいるのがわかったので「私もいるー」と何となく返事をしたら、「映画を見たくて東京帰ってきた(笑)これ有楽町のスタバなの」とのこと。

ふーんと思い調べて出会ったのが、この映画。『Ryuichi Sakamoto:CODA』。ちょうど卒論のテーマのおかげで、その時書かなければいけなかったキーワードが「自然」とか「労働」「活動」だとか、人間がどう自然にはたらきかけるか、という関係性についてだったから、これは見ておかなければと半ば衝動的に今朝のチケットを予約した。

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正直、こんな文化構想学部っぽい、二文っぽいことを書いているけど、私は昔っから色んなことに疎くて、情報アンテナは低めだし張る範囲は狭い。坂本龍一だって、戦場のメリークリスマスの人?くらいの印象だったし、むしろ久石譲とちょっと頭の中で混ざってたし、そのスタバでSpotifyでググった程度だった。

ただ、何となくこの、衝動的に買う・行くレベルのことはあんまり無いので少しだけ期待をして(卒論に盛り込めたら字数稼げるかもという気持ちが3割)行ってみたら、

見終わったら神経研ぎ澄まされて色々うるさいくらいに音が聴こえてくるわ、ファミマで買う定番のサンドイッチの美味しさが感じられなくなるわ、家に着いたら出発したときとなにも風景は変わらないのにイヤーな”気”を感じるようになるわ、身体の中で浄化が起こったのか代謝が良くなってトイレから出られないわで、大革命が起こってしまった。。。

明日になったら、きっと卒論のプレッシャーやいつもの日常に紛れて大革命も終わってしまうような気がするので、備忘録的に残しておく。

自然に還れ、逆行しろ、というのではない

これが一番答えが出ないところ。

この映画のポスターの写真では、バケツをかぶる坂本龍一がいるけれど、これは雨音をはじめとして色んな自然の音を聴いている姿。3.11以降にこのような自然と自然がおりなす音を求めて、手足を動かして音を探しに行っている。映画の中でも、水・風・自然の音が多いし、北極の水の音を“釣り”ながら、これは産業革命以前に降った雪が溶けて流れている水、最も純粋な音だと表現していたのが印象的だった。

人間にとって自然なもの、ではなくて、地球・世界がつくりだす自然と坂本龍一がどんどん一体になっているような感覚を音楽から感じ取れるけど、一方で今さら石器時代のような生活には戻れない。自然、という言葉からは森とか土とか、いわゆる“田舎”の風景を思い浮かべがちで、確かにそれは正解だと思うけど、そんな風景が溢れた世界に日本が戻っていくかといえば、そうではないと思う。では、どうやって、逆行せずに、この映画が伝える「自然」と共に生きていけるか、「自然」としての人間になれるか・・・しばらく答えは出ないと思う。少なくとも私の乏しい頭の中では…

戦場のメリークリスマス

陸前高田市でのコンサートで、戦場のメリークリスマスを演奏するようすが劇中にある。そのシーンのときの、あのなんともいえない気持ちはまだあまり整理が出来ていない。

映画は、津波を被った、宮城県にあるピアノを触って演奏する坂本龍一のようすから始まる。すぐ横の壁には、坂本龍一の身長より少し高いくらいに、はっきりと、津波の高さが分かる跡があって。ピアノも汚れていて、たたいた鍵盤は戻らない。ピアノの調子をたしかめるように、たたいたり弦を鳴らしたり、いろんな音を出してみたりするんだけど痛々しい音だし、あ、椅子に座った演奏するのか、と思ったら奏でられる音楽は綺麗なんだけど哀しくて。。。

私は、その歴史的な出来事が起きたときは高校1年生、16歳で、仙台にいたので、他の人からみたら当事者で被災者なのだろうけど、色んな意見を恐れずに言うと、私にはその当事者感があまりない。その時から1ヶ月くらいのことはあまり覚えていないし、人生をひっくり返すようなことだったかと言われると、“「インドに行って人生変わる」と言われているけど実際そうでもない”、とたまに書かれるのと同じで、自分は、そんなに変わったと感じない。だからこそ、毎年その季節になると、向き合えていない自分は何なのか、とか、少し思うことや感じ取ることはあるけれど、もっと苦しんでいる人がいるから何も言えない、とか、ボランティアなどで足を運ぶこともそのとき頭によぎったけれど、自分は行かなかったしその後も行っていない罪の意識のようなものとか、でもそのときは家族の近くにいるのがベストだと思ったからそれは信じてあげたいとか、モヤモヤした気持ちになるのは事実。

あの戦場のメリークリスマスは、今この私が聴くと、

「哀悼」という言葉では表しきれないし、「自然への畏怖」でもまだ表しきれない、「地に足着いた」「母なる大地」のような感じも近いような全然違うような・・・と、やっぱり整理ができない。

労働とは、自然へはたらきかけること

これは、私がそのとき書いていた(いや、今すぐに書かなきゃならない)卒論の章のテーマであり、ここ数日文献を読み漁るテーマだった。だからこそ、アンテナが張っていてこの映画にたどり着いたのかもしれないとも思う。。。

自然へはたらきかけて、人間が何かをつくること。これを本質的に労働というよね、という話を、卒論指導で教授とたっぷりして、ゼミでも話していた。こうやって、自然に耳を傾けて、自分の足で土を踏み、音を鳴らしてかき集めて、「外なる自然」と坂本龍一の「内なる自然」が重なって音楽を織りなすこと、これが、”自然へはたらきかけて、人間が何かをつくること” なのかもしれないなぁと、畏れ多いながら感じた。

卒論指導で、教授が話してくれていたことをざっくりと触れると、

労働の基軸になっているのは、命・自然であり、そこから離れたところに個人も社会もない。労働が働きかける対象は、本質的には自然であり、多くの労働は自然との関係にある。自然に不可をかけすぎるとバランスは崩れ、労働もなにも成り立たなくなる。。とか、自然といっても環境としての「外なる自然」だけではなくて“自然でいられる”って言うときの「内なる自然」もあって。。とか、そういう話をしていた。

そのとき私は、そこまで労働と自然が結びついていなくて「そんな農業的なものを扱う予定ではなかったけど…」と思いながらも、よくよく考えて文献を読んでいたら何となくしっくり来そう、なところまで来ていた。今もそのレベルから変わらないし。。自然と人間の関係性と、自然へのはたらきかけ、というところに、この映画は少しの納得感と、期待と、好奇心を湧かせてくれ、また悶々と考えさせてくれるものだった。


卒論を、あと数週間で書き上げねばというところなのに、ここで3000字くらい書くエネルギーを使ってしまった。。備忘録としては長すぎたけど、普段書かないことなので、こういう突発的なエネルギーが無ければ書けないものなので良しとしておこう。。。

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ここで綺麗にまとめるのが良いんだろうけど、「みなさん見てみてください」でもないし「根暗を露呈させてしまった。。」ってほど読んでる人いないし、なのでここで終わりにしておく。。卒論頑張ろう。。。


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