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選択肢は持っているだけで価値がある

交渉には選択肢が必要だ

文章で書くとあまりにも平凡な訴えに見えるが、この構造が腹落ちしていないために困っている人は意外と多いのではないだろうか。

極端な例を使って説明してみる。

例えば、僕が砂漠の真ん中で喉が乾いて今にも死にかけている旅人だとする。

その時目の前にミネラルウォーターを持っている商人が現れた。見渡す限り他の人はおらず、街やオアシスが見える見込みもなさそうだ。

このとき、商人が提示する金額はいくらになるだろうか。



この答えは間違いなく、僕の所有財産全額だ。取れるだけ取る、が商人にとっての正解である。

なぜなら、僕にはその水を買って飲むか、死ぬかの2択しか存在しないから。値下げ交渉なんてしようがないのだ。死ぬのだから。

その水がどんなに温かろうが、ちょっと不衛生であろうが、僕にはその場で全財産を投げ打って水を買うしかない。死ぬのだから。

これはあまりにも極端な例ではあるが、僕らの周りを見渡してみると、様々な交渉に囲まれていることに気づくだろう。

その時に重要なのは、選択肢を持っていることそれ自体なのだ。

搾取を感情ではなく構造の問題として捉える

選択肢が弱く少ない人ほど、搾取されてしまう。このルールは基本的に変わらない。

だから実際に選ぶかは別にして、「選択できること」それ自体の価値を忘れてはいけない。

依存先を増やす方向に進むことが重要だと言われる理由は、選択肢があることで依存度が分散するからだ。誰かと上手くいかなくても、他の人と上手くやればいい。

交渉も同じだ。選択肢が狭まるほど、余裕がなくなっていく。

ミクロレベルでは、どんなに感情に訴えかけようが、交渉力を左右するルールは基本的に変わらない。交渉できない人は搾取される。しんどい状況にある時ほど「選択肢が交渉力を決める」という事実に向き合う必要がある。残念ながら交渉相手の善悪についていくら議論しても、構造は変わらない。一個人としてはルールが不変である前提で動くことが求められる。

対象的に、マクロな社会福祉の仕組みを作る側に回る時には、搾取されている人たちが苦しんでいる要因を構造として理解し、対処していく必要がある。公共の福祉の存在意義の一つに、こういった搾取構造を最小化することも含まれる。

選択肢を持つ目的はいい意思決定をすること

もちろん、選択肢を増やすこと自体に躍起になりすぎると、目的と手段が混同してしまう。選択肢が多すぎて、だんだんと選べなくなっていく。

闇雲に数を増やしても、大切なものが何なのか選びとれなくなることがある。

あくまで、選択肢を増やす目的はいい意思決定をすること。多すぎることもそれはそれでしんどい。

付き合い続けられる友人にしろ就職先のようなコミュニティにしろ、適正サイズというものがあるらしい。ある関係性を維持するのに必要なエネルギーは変わらなくても、人が持ちうるエネルギーには限界があるからだ。

選択肢が僕らに与えてくれるもの、僕らから奪っていくもの。どちらもたくさんあるのだ。

今後の研究活動と美味しいご飯に使わせていただきます!