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三浦春馬さん映画「天外者(てんがらもん)」を10倍楽しむために 五代友厚の知名度

皆さんは、五代友厚についてどのくらい知っていますか? 朝ドラでディーン・フジオカさんが演じたことでしょうか? 「五代様ロス」という言葉でしょうか? このnoteでは、三浦春馬さんの映画「天外者」を楽しむため、五代友厚が何をした人なのかと、なぜ功績が上手く伝わっていないのかについて書いていきます。

「薩長土肥」という言葉を聞いた事はないでしょうか。幕末において、天皇中心の世の中を作るために大きな役割を果たした4つの藩、「薩摩、長州、土佐、肥前」を指します。当然、明治政府にはこれら4藩の出身者が多く名を連ねていました。薩摩藩も例外ではなく、多くの人材を輩出しています。

薩摩藩出身の明治時代の政治家

西郷隆盛(征韓論が大久保利通に批判され下野)、大久保利通、森有礼、松方正義、黒田清隆、五代友厚(のち実業家に転身)らがいます。五代友厚が新政府で活躍したのはわずか2年ほどで、すぐ民間人になっていますので、政治家と言うには少し語弊があるかもしれません。

なぜ五代友厚は、その功績の割に歴史的に大きく扱われないのか、私が考えるその3つの理由を以下に記します。

理由その1:日本の歴史教育における「政治偏重」

五代友厚が歴史の教科書に登場していた、という記憶がある方は、少ないのではないでしょうか。大抵の日本史の教科書は大半のページを「政治史」に割いているため、時の権力者の行った政策や権力者の移り変わりについては把握できるものの、経済史や文化史にしか登場しない人物の取り扱いは少々軽んじられているのが実際のところかと思います。彼の事業家としての功績は、鉱山の開発とそこから国が買い上げた金銀を同じ精度で鋳造したこと、商工会議所と言った事業者同士の繋がりを作り、横串の活動をしたこと、英和辞典の編纂、のちの大阪市立大学を設立したことなど多岐に及びます。

理由その2:北海道開拓使官有物払い下げ事件

先程、「五代友厚は歴史教科書で見た記憶がない人が多いだろう」と述べましたが、載っていないわけではありません。どう載ってるかと言いますと、「北海道開拓使官有物払い下げ事件」に絡んで以下のように記載されています(一方、功績については滅多に書かれていません)。

開拓使の廃止を前に、長官の黒田清隆が同じ薩摩出身の政商五代友厚に、約2000万円を投じた事業を38万円余という安い価格で払い下げようとして問題となった。(清水書院 『高等学校日本史B 新訂版』 令和2年2月15日 第3版発行)

おっとと、登場したと思ったらいきなり悪者扱いですね。これは、事実ではありません。長官の黒田清隆が政府に提出した「開拓使官有物払い下げの建議書」の中に記載されている払い下げ先は、「北海社」という会社であり、当時五代友厚のいた「関西貿易社」ではありません。北海社は北海道開拓使の上級官吏4人が設立した会社で、4人は元薩摩藩士でした。4人連名の「内願書」が黒田清隆の提出した建議書に添付されていますが、それには払い下げ対象の明細と払い下げ見積額も詳細に記載されており、これが五代友厚の関西貿易社とは無関係な事は明らかです。ではなぜ、教科書にこんな記載がされているのか? 理由は大きく3つあります。

1. 新聞の誤報

当時、ある新聞社が払い下げ先を「関西貿易社」であるとしたまま払い下げ事件をスクープ、その後他の2紙がより正確な情報を報じました。現在では黒田清隆の提出した建議書の内容も明白ですので、最初のスクープが事実に反することは明らかです。

2.関西貿易社が払い下げを願い出た物件がある

建議書に含まれていない岩内炭坑と厚岸官林の払い下げを、のちに関西貿易社は願い出ています。つまり、払い下げ自体には無関係ではなかったという事です(申請が行われただけで、閣議も通っていなければ実際の払い下げも行われていません)。

3. 最初の誤報を基にした論文「大久保利謙論文」の存在と定説化

この論文を引用すると長くなるので避けますが、歴史学者大久保利謙は「関西貿易社は開拓使の事業をそのまま引き受けるために設立された会社である」と最初の誤報を基にした論旨を展開し、発表しました。その論旨が、後の歴史学者たちによって定説化されたのです。少し調べれば五代友厚の関西貿易社が無関係な事は明白なのに、です。

他に、「北海社の設立は関西貿易社との合併が前提だった説」もあり、必ずしも五代友厚が潔白だったと言い切れない部分は残りますが、少なくとも現在の教科書に書かれている、五代友厚に対する不当に安い開拓使官有物の払い下げなどありませんでした。加えて、もともと共同出資により設立され、当時としては先進的な合議制により物事を決めていた関西貿易社で、そのような独善的なやり方が通るとは思えない、というのが私の個人的な印象です。

理由その3:当時の庶民感情

西郷隆盛が幕末の志士の中でとても人気なのは、庶民感情によるところが大きいと私は考えます。征韓論を唱えて政府を追い出され、鹿児島に帰っていた西郷隆盛の側には、当時の政府に不満を持つ元士族が大勢集まった事でしょう。以前は藩から俸禄が与えられていたのに、明治政府になったら県からは何もない。刀も取られた。徴兵制を敷かれて素人でも軍隊に入れる…全国あちこちで不平氏族の反乱が起きます。その最も大きなものが西郷隆盛の率いた「西南戦争」です。結局元薩摩藩士の不平士族たちは負けるのですが、当時の地元民にとって「庶民の不満に最期まで付き合ってくれた」西郷隆盛と、「外国かぶれで戦いの矢面にも立たない、いけすかない金儲けの上手いやつ」五代友厚では好感度に違いが出て当然なのではないでしょうか。2人の歩んだ道が違いすぎますから、その功績は比較できるようなものではありませんが、庶民感情として西郷隆盛にシンパシーを感じるのは仕方のない事かと思います。

まとめ

五代友厚は、政治家としてほとんど活動していないこともあり、歴史の教科書で大きく扱われるような存在ではありません。49歳で生涯を閉じており、携わった様々な事業が日の目を見ることも叶いませんでした。お札にも大河ドラマにもなる渋沢栄一が長生きして、自分の手がけた事業を見届けられたのとは対照的です。また、誤りが定着してしまった北海道開拓使官有物払い下げ事件により、不当にその功績に対する評価が低くなっているように思います。しかし、日本史の教科書という教科書全てで、開拓使官有物払い下げ事件について「北海社」のほの字も出ないのは不思議で仕方ありません。なぜなんでしょう。私はずっと嘘を信じさせられていた事に少々ショックを受けています、

映画「天外者」で、少し五代友厚のイメージが良くなると良いなと思います。


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