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第25夜◇咲きにほふ 花のけしきを見るからに~白河上皇

咲きにほふ 花のけしきを 見るからに
神のこころぞ そらにしらる


(意訳:参道に咲きほこる花の様子を見るたびに、熊野の神の御心が、それとなく知られるよ。)

白河上皇 熊野大社にて

白河上皇が熊野詣でに訪れた際、参道に咲く花をご覧になり、詠まれた歌。

先日はじめて紀の国、和歌山県を訪れました。

南紀白浜空港に降り立ち、私は思わず目一杯息を吸いながら、空を見上げました。白く柔らかな日差し、青い青い空。あぁ。ここには言葉にならない何かが宿っているのだなあと、込み上げる嬉しさと共に、確かに感じられたのでした。

南国のそれとはどこか違う日差し。どんなに照りつけていても、あちら側が透けるような、繊細な和紙を一枚かざしたかのような光。故に、どこを見ても、真昼の夢のような、朧げな感覚に包まれる..はじめての和歌山は、そんな印象を受けました。

世界遺産、熊野古道。
今も美しい景色で溢れています。綺麗という言葉では言い表せない、神聖さを持ち合わせているのは、平安時代から長年、神宿る地とされてきたからなのか。はたまた、天に通じるような光降り注ぐ土地であったから、信仰の地として選ばれたのか。

いずれにせよ、絢爛たる美しさの裏に怨念を閉じ込めたような京の都から、熊野に詣でたならば、さぞかし心晴れやかに天近く感じられたことでしょう。

そんな熊野を歩き、辿り着いた熊野本宮大社。この歌碑を見つけ、私はこの上なく腑に落ちる思いがしました。この地の神様は、お社の中に鎮座している気配がまるでしない。一輪の花となり、また風に揺れる一枚の葉となり、きらめく光となり、大地と一体であるかのように感じられるからです。

いにしえから多くの人がこの地を目指して歩き、かさなる思いを抱きながら、自然万物に神が宿るという、日本の宗教観を育んだのでしょうか。

紀の国、美しい光の国、和歌山県。
これからまた何度も訪れたい、かけがえのない場所になりました。離れても、心は同じ空の下に..。