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沈黙から生み出されることばを

昨日(「2019年の小野二郎(メモ①)」)のつづき。…といきたいところだけれど、それは明日にして、今日は今日のことを書いておこう。

今朝はどんよりとした曇り空で、昨日までの暑さが少し引いた。──と思っていたら、川崎市の登戸で、小学生と大人が刺される事件(?)があったというニュースが入ってきた。

通り魔、無差別殺傷、…が頭の中に居座ろうとしたが、続報を見ていると、違う、小学生を、おそらくあるていど裕福な家庭のこどもが通う私立小学校の、しかも女児ばかりを狙ったというようなことが言われ出した。こどもが1人亡くなって、大人も1人亡くなった、そして刺したその人も自殺のようなかたちで亡くなった。

ほんとうに、ことばがない。

今回の事件そのものについては、まだ、あまり語る気分になれない。

ただ、言えることは、たまたま現れたひとりの凶悪犯による、ただの突発的な事件というふうにはとても思えない、いまの、この社会、この時代を象徴するような何かを強く孕んでいるように感じられる、ということだ。

藤田孝典さんはさっそく、こんな記事(「「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい」)を書いて発信している。さすがにはやい。急を要することだからだ。

Twitterを見ていると、この発信に対して、「遺族に向かって言えるのか」とか「綺麗事ばかり言うな」ということを口汚く(書いた本人に向かって)ぶつける人がものすごい数いて、げんなりする。ちゃんと読めよ、と思う。もちろん藤田さんはそんなのにはびくともしないだろう、「共に生きよう」と言い続けるだろう(自分もそうしたい)。

あたりまえのことだが(と思うのだが)、「死ねと思う」こと、あるいは「死ねと思ってしまう」こと、それと、「死ねと発言、発信すること」は違う。

これもTwitterで、ある政治家が書いているのを見て知ったが、「拡大自殺」ということばがあるらしい。そういうことばを生み出すことで、さらにそのことがひろがりそうな気がする。

ことばというのは怖い。だから、ことばよりも、沈黙が強い。いや、そうではない。沈黙も、またことばだ。

沈黙の中から生み出されるようなことばで話すことができたらよいのだ。

どうすれば、人を生かすことばを生み出してゆけるだろう。どうすれば、あらゆる人の生を肯定する音楽を、ことばで奏でられるだろう。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、5月28日。今日は、昨夜の食卓の話。

※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝に更新しています。

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