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"文字のない言語"の誘惑

(昨日の「"聴覚の世界"の物語」のつづき)

世界中には6000〜7000の言語があるという。日本のように、ひとつの国につきひとつの言語という国はおそらく少なくて… と、いま書いてはみたものの、日本にも複数の言語が存在することはじつは皆、知っている。アイヌ語、琉球語がよく知られているが、よく知られていない言語もたくさんあるだろう。"方言"にも、もともとは別の言語だったろうと思われることばがありそうだ。

その6000〜7000ある言語のうち、文字をもつ言語は、ほんの1部(100足らず?)らしい。

ほとんどの言語は文字をもたない! つまり"音"だけである。

昨日ご紹介した『アフリカの日々』でイサク・デイネセンが、"アフリカ人"には文字をもたない人がいて耳で物語を聴く能力が衰えていないなんて書いていたが、ほとんどの言語が"音"で成り立っているとしたら、(イサク・デイネセンの言う)何でも文字で言語を読みたがるヨーロッパ式のほうがじつは少数派、というわけだ。

西きょうじさんの「いま、あらためてことばとむきあう」という文章によると、"声の文化の特徴"は、

・追加的であること(ロジカルに走らず次々とことばが追加されてゆく)
・反復的であること
・「いま・ここ」の生活空間と直結していること

だという。

「追加的」「反復」は、実感としてよくわかる。喋るとき(話すとき)にどうか? を考えてみればよい。「いま・ここ」に直結しているということについては、以前は考えてみたことがなかった。でも、声に限らず"音"というものは、空中に向かって発せられたら、その場で聞こえて、消えてしまうものなので、それもあたりまえといえばあたりまえか。

発せられた音が記録されるようになった蓄音機の発明以来、人の話も、音楽も、長く保存できるようになったが、もともとは「いま・ここ」に深く根ざしたものだった。

(余談だけれど、蓄音機〜レコードというもの、まずは人の話し声を録音することに使われた、音楽を記録しようなどと考えるのはその次の段階だった──というこの話はいま資料なしで書いていて、うる覚えだけれど、きっとそうだろうという気がする。音楽そのものの記録を大量にコピーして商売して稼ごうと考えたのは画期的な発明だったろう、そこから先は"ポピュラー音楽"の歴史のお話になる)

いま、ぼくはロジックに走って書いているが、からだの中には"声"が響いていて、実際には、書いたものを(書かれたものを)読んだときに得られるような感触で考えて生きているわけではない。

音楽は、反復が気持ちい、というより、反復が音楽になる、あー、反復こそが音楽で、言語もじつは音楽のようなものだったと想像していると楽しい。

書きながら、ことばの箱を間違えて倒してしまって、その箱の中のものをぶちまけたとしたらどんな言語空間ができるんだろう? それを文章の中でやることはできないか。そんな妄想をすることがある。

(つづく)

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