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「好きなこと」って何だ?

昨日、塩見直紀さんの本『半農半Xという生き方』のことを書いて、写真を載せたら、その本の帯に、

「好きなこと」をしながら自分も社会も幸せになる!

と書いてあった。それを、読んだ方からご指摘いただいて、よく見てみた。

この手の本の帯というのは(ぼくはよく「要らないんじゃない?」と思うのだが)、著者が考えているのではなくて編集者が考えていることが多いんだろう。

この本は手っ取り早くいろんな問題が"解消"する方法を紹介しようとしているような本ではないのだが、まぁ、ぼくは普段から帯の文句をまるで信じてないわけだ。まぁ、そのことは置いておいて…

この帯、11年前ですけど、何だか、すごく"古い"感じがしますね。いまなら、どんな書き方になるんだろうか。

この本の中心には、地元の京都府・綾部で「小さな農業」をしながら、「好きなこと」をして、暮らしてゆこうとしている著者の実践がある。

(今回はふと思い出しただけで、ほとんど読み返す時間なく書いているので、不正確な点があればお許しいただきたいし、ご指摘ください)

「小さな農業」とは、いわゆる「生業(なりわい)」だ。生きてゆくための日々の営みだ。

(思い出すのは、かつては「仕事」といえば「社会とのかかわりのあること」で、「生業」とは区別されていた、という話を聞いた時のことだ。その人はたぶん明治生まれの人ではなかったか)

塩見さんがそんなことを考えたきっかけは、屋久島の作家・星川淳さんの「半農半著」だと聞いた。自分にとって「著」は、何だろうか? わからないから、それをとりあえず「X」にして… ということから、その後の塩見さんの活動が始まった。

彼にとって、「やりたいこと」は「X」だったわけ。

この話は、ぼくにはとても親しみやすかった。

例えば、執筆の仕事をして暮らしてゆきたいが、それだけでは"食べる"ことができないので、それ以外のこと(たとえば「小さな農業」)もやりながら生きてゆこう──というのではない。

もとを辿れば、自分が何をしたいか、具体的には、わかっていないのである。

考え方としては逆で、あくまでも"暮らし"がベースにある。"生業"があってこその「X」なのだ。

なぜかと言うと、"生業"を行なっている時間の中に(例えば畑で過ごしている時間の中に)、「X」の育まれることがあるからだ。

ぼくはアイデアを大切にしたい人なので(この社会はちっとも大切にする気配がないとも感じているが)、それを痛切に感じる。

素晴らしいアイデアが、会社のデスクにかじりついて必死に絞り出そうとしたら出てくるという人に会ったことがない。力のあるアイデアを生み出す人というのは大抵、散歩をしていて思いつくとか、シャンプーしている時に思いつくとか、そんなふうだ。共通しているのは「手とか足とかを動かしている時」ということではないかとぼくは思っている。あと、ぼーっとしてたら… というのもありそうだが。必死で考えていて… というのではないのだ(たまにはあるだろうが、そうでないことが遥かに多い! というのがこの道草家による研究結果だ)。

ぼくがもし「自分がやりたい(とわかっている)こと」だけに向かっていたら、いまみたいにはなっていなかっただろうと思う。もっと楽にできていたかもしれないが、しかしそれも時代が変われば変わる。

ぼくの興味関心はいつも「まだ、よくわかってないこと」に向けられているので、これ以上のことを書こうという気にあまりならない。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、6月6日。今日は、森の香りの中で…

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