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"物語"と死生観

その「オトナのための文章教室」、ある方が"おとぎ話"を書くのだ、と言って毎週のように継続して書き、ぼくもそれにずっと付き合い(読み、話し合って)、年末にとりあえず完結を見た。

先週からぼくは、その"おとぎ話"をめぐって、いわば"物語小論"を書いている。

その"おとぎ話"は、「なかなか始まらない物語」と「なかなか終わらない物語」の、前・後半から成る。

ヨーロッパにありそうな"おとぎ話"をモデルにしていて、そのストーリー自体はありがちなものだが、ありがちな物語でしかないことを問題にしている物語というか、ある種のパロディになっているかもしれない。

詳しいことはいま書いているところだが、「物語をどこで始め、どこで終えるのか」と考えてゆくと、人生はどこで始まり、どこで終わるのか、という思索へと導かれていった。

たぶん、現代の人(私たち)が普段感じている"人生"とは、生まれたところに始まり、いま、この瞬間までずっと生きてきて、この瞬間を通り過ぎ未来へゆく、そしていつか死が訪れ、自分の人生は終わる、というふうだろう。

なんとなく、直線の道(1本の道)がイメージされる。

でも、その"おとぎ話"を読んで、感じる人生(物語)とは、直線ではなく、円形を描いている。

昨年末から手元に置いて、少しずつ読んでいる本に、渡辺京二『民衆という幻像』があり、この中に「死生観を問われて」という短いエッセイがある。

前近代の人間はおそらく、自分が宇宙に充満する光に照らされているような感覚で生きていたのではなかろうか。その光が失われるにつれて、代償のように出現したのが、個性尊重、自己完結という近代の理想、つまり自愛心の近代的形態である。死が恐ろしい相貌を帯び始めたのはその時であった。

前近代(日本でいうと江戸時代より前)の人びとにとって、「死」は、いまほど恐いものだと思われていなかったのではないか、と言う。

「死」が、いまとは違うあり方をしていたのではないか、というふうにぼくは受け取った。

動物たちが「死」を受け入れるときの様子を、思い出してみる。ぼくはいま、つい「受け入れる」と書いてしまったが、そんなふうに見えることがある。

ローラ・ニーロ(Laura Nyro)は10代の頃に書いた歌の中で、「私は死なんて怖くない」と歌っている。私が死んで、そしてまた子供が生まれて、世界は回ってゆく…といったことばを、ゴスペルのようなリズムとメロディに乗せて("And When I Die")。それをかつてぼくはフォーク・ソング(民謡)を聴くような感覚で聴いていた。

(つづく)

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