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大人から子供へ時間が流れる。

ぼくが大学生になるため大阪に行き、故郷の鹿児島を離れたのは1998年の春だから、もうすぐ20年になる。

ぼくのなかにある「鹿児島」は、20年、そのままなのだが、現実の街も人も、まったくそのままであるはずがなく、帰省するとその現実を突きつけられる。

あぁ、20年、か。

20年という時間は、20年前がすぐそこにあるような気がするくらい当人にはあっという間だが、考えようによっては、たいへんに長い時間で、このぼんやりとした長さはなんだ、と思う。

いま、ぼくは週一回のペースで、20歳前後の若い人たちを相手に「ことば」の授業をしている。彼らは20年前には生まれたばかりだった。信じられない。当たり前のことだが、信じられないのだった。ぼくも38年前には生まれたばかりだったのだ。信じられるか。しかしこども時代の記憶はたしかにあり、あのこどもが大人(大人って一体何だ)になっているのだから仕方ないといえば仕方ない。

ぼくはそんなことを本気で考えてしまう人なので、20年ほど前まで住んでいた故郷をたまに訪れると、時間の流れにもまれて泣きたくなってしまう。

いま、ぼくは東京にいて、授業をやるために吉祥寺へ向かう井の頭線の車内で立ったまま書いている。横に小学生だろう男の子が立っている。彼(ら)もこのまま無事に生きつづけたとしたら30年後がやってくる。いまのぼくと同じくらいの年齢だ。

いま、ぼくは、彼(ら)に何を手渡そうとして日々仕事をしているか。

以下は、川村二郎『語り物の宇宙』(講談社文芸文庫)からの引用。

大人が子供のままでいたいと思うのは、何も昨今にはじまった心理現象ではない。ただし昔は昨今のように、その願望に対して外界が寛容でなかった、というだけのことだろう。不寛容な外界の圧力に対しては耐えるしかない。その抑圧を天の与えた試煉と思いなし、みずからの幼児性を克服し、名実ともに歴とした大人に成長するのは、多分選ばれた優秀者のみ可能なことである。大多数の平凡な人間は、抑圧に耐えるだけで、時にそこからマゾヒズムの快楽をおぼえることがあるにはしても、真実心を入れかえたりはしない。こう考えると、シンデレラにせよ中将姫にせよ、ナルシズム、乃至マゾヒズムに彩られた、抑圧された願望の夢と見えてくる。

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