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おわりとはじまり

昨年(2018年)の2月2日から、武蔵野市の地下のアトリエで"だいたい毎週"やってきた「オトナのための文章教室」、今日(2019年1月25日)で、最終回を迎える。ご参加の皆さま、アトリエの皆さま、1年間ありがとうございました!

ぼくはじつは「終える」のは嫌いじゃなくて…というよりむしろ好きな方で、趣味みたいなところがあり、「最終回」ということばには胸踊るものがある。寂しさ、とかよりも。

あることが終わると、また新しいことが始まる。

その"はじまりの予感"に、ワクワクするのだろう。ただし、ぼくにとってはほとんどの場合、「これからどうなるんだろう」という不安もないまぜの"ワクワク"だけれど。

細野晴臣さんは、はっぴいえんど(というバンドがあります)を始める時に、やめる想定をしてはじめた、というようなことを以前言っていた。とすると、おそらくYMOも、その他のいろいろな仕事にかんしても同じようなことが言えるのだろう(最近はもうそんなことも考えなくなっていそうだけれど)。

始めては止め、始めては止め、としていても、同じ人の仕事なのだから一貫性は嫌でもついてくる。

「文章教室」では、書くうえで、どこで始め、どこで終わるか、といった話も時折していた。

たいていは、あるところでいきなり始まり、あるところまで来てバサッと終わるのだろうと思うが、ぼくなんかはまだちょっとかっこをつけて(文章を仕上げて)しまうところがある。でも本当は、「いきなり始まり、あるところまで来てバサッと終わる」でいいのだ。人生みたいだな。

というか、本当のことを言うと、「おわり」なんてものは存在しなくて、「つづく」のだ。終わったように見えるものでも、何らかのかたちで引き継がれてゆく。

以前、「道草の家 presents よむ会」というのを毎月(を数年間)やっていたことがあり、その「よむ会」を止めようと言った時、「続けてほしい」という声があった。「続けたい」という思いのある人がいるなら、続くだろう。ぜひやってください、と伝えたが、続く気配はなかった。

その後、ある人から連絡をもらって、そこに参加している(自分もメンバーの1人である)という"所属感"に依存しているところがあった、でも、もう大丈夫です! と言われた。そうかぁ。と、ぼくは考えたこともないことだったので、印象に残った。

大丈夫じゃなかったら依存も必要なんだろうけど(それも生きてゆくための術だ)、自分の足で立てるようになったのなら、1人で立つようにした方がいいなぁ。

今日の最終回のためにぼくが書いた文章は、数日前に「"物語"と死生観」で書いたことの延長にある文章だが、"物語"と"人生"と"冒険"にかんするエッセイ。

再会を願って。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房の日めくりカレンダー」、1日めくって、今日は1月25日、「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに毎日置いてあります。ぜひご覧ください。

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