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まどろみの中の宇宙

自分の体の中に、宇宙がある。

随分昔に自然とそう思えた時があって、その感覚はずっと強烈な印象を残していた。

この話は、する相手をかなり選ぶ。一歩間違えば、危ない人認定されて陰で笑われてしまうかもしれない。

でも幸運にも1人だけ、この話に心の底から共感してくれた人がいた。というか、その人にしか話したことがない。

この人になら言ってもいいかな、と思う人に、このタイミングしかない、というタイミングで思い切って言ってみたのだ。

すると、その人の反応から、本当に同じ考えを共有していることが分かって、お互いに「うわー!」となった。

それだけで十分だった。ディープな話題であることはお互いに分かっていたので、興奮しつつも冷静に話してしばし盛り上がり、その後、必要以上にそのことに関して言葉は交わさなかった。

でもその会話をしてから、確実に心の距離がぐっと縮まった。今はもうほとんど会わなくなってしまった人だけど、いつだって不思議と近くに感じている。

そんな人は、めったにいない。めったに出会えない。だけどこの世のどこかにはきっといる。出身も年齢も性格も違うけど不思議なほど深いところで通じ合える、そんな人と、生きているうちにあとどれくらい出会えるだろう。

そんな感じの、突拍子もなくて、誰とでも共有できるわけではない考えが、時々ふっと心に浮かぶ。何の役にも立たないけれど、考えるとちょっと面白くてワクワクするようなこと。その一部を、ここにそっと置いておく。

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この世に生まれた意味を知るタイミングは、もしかしたら人生で2回だけあるのかもしれない。生まれて肺に空気が入った瞬間と、死の間際の息を引き取る瞬間と。

息を吸い込んで始まり、息を吸い込んで終わる、その瞬間に私たちは何を感じるのか。

もちろん生まれた直後に何を感じたかなんて覚えていないし、人生の最期に何を感じたとしても、それはもう言葉にして誰かに伝えたりはできないだろう。

そういう透明な、伝える力を持たなかっただけで確かに存在した淡い感情たちが、世界には溶けている気がする。

ひとつ確かなのは、誰もが泣きながら人生をスタートするということ。生まれたての赤ん坊は感情的に泣いているわけではない、という学術的な理由をいくら並べ立てられても、つい非科学的なことを考えてしまう。

もし誰もが、先に生きそして死んでいった誰かの生まれ変わりなら、この世に生まれ落ちた瞬間、世界に溶けて漂っていた『昔の自分』の最期の感情に触れて、思いがあふれて涙するのではないか。・・・これは本気でそう思ってるわけじゃなくて、そういう考え方も面白いからありかなぁ、という程度の完全な空想だ。でも、ピュアな赤ん坊という生き物になら、そういう第六感的な力があっても全く驚かない。

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自分が生まれてきた意味について考えることは、思春期の頃には多少あったと思うけど、今はもうない。だって、日常があまりにも忙しい。忙しくなくても、何か用事を見つけて忙しくしてしまう。時間があるうちに、あのドラマを観ておこう、その本を読み進めよう、この情報を詳しく調べよう・・・エトセトラエトセトラ。

「ある」と思っていた時間はすぐになくなる。時間が「ある」と思っているうちは、ずっとこの調子なのかもしれない。生まれた瞬間から、砂時計の砂は一定のスピードで落ち続けているのだ。もともと自分に与えられた砂の総量と、砂の落ちるスピードは、途中では変わらない。常に一定のリズムで流れていて、もとには戻らない。そしていつか、必ず終わる。なくなる。止まる。

「生きること」そのものの究極的な意味は、いくら考えてみてもよく分からない。でも生きている過程で「人生」に意味を見出そうとすることに何の意味もないんだろうな、ということは分かっている。「一度きりの人生をどう生きるか」ということについては、今まさにあれこれ迷っているし、これからも常に考え続けていたいけど。

とにかくものすごい確率で私は「私」として生まれてきて、ありがたいことに今日も生きている。生きることに理由なんかない。ただ「生きたい」という本能のままに、どうにか死の危険を回避しながら生きていくのみだ。

水をごくごく飲んで、食事で栄養を摂取して、横断歩道は青信号でも左右をちょっと確認してから渡って、階段を踏み外さないように下りて、毎日ちゃんと睡眠時間を確保して。どれも当たり前のことだけど、すべて生命を維持するためにしていることだ。人は生まれた瞬間から死に向かって生きているけど、本能は「生」と向き合い続けている。

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人の生死もそうだけど、さらに大きな不思議にも思いを馳せる。何て謎めいていて、すごいことなんだろう。はっきりとした誕生のメカニズムも分かっていないこの不確かな宇宙が、いかにも当たり前みたいな顔をして今日も続いているなんて。

朝、太陽が昇る。春の穏やかな陽気や、夏の強烈な日ざしに肌がじりじり焼けるような感覚をじっと味わうとき、はるか遠くの1つの天体が発しているエネルギーの総量にめまいを覚える。

夜、星が瞬く。街灯やネオンのない漆黒の闇の中、夜空を埋め尽くすほどの星を見るとき、宇宙をぐっと近くに感じて、上空へ放り出されてしまいそうで、その場に立っているのが怖くなる。

風が頬をなでる。突然風が強く吹くと、その風が生まれたはるか遠い上空を想像して、その風がたどってきた旅路の途方もない距離を思い、足がすくみそうになる。

うわあ、すごい。すごい所に立っている。すごい所で生きている。私たちが存在できる「大前提」はこんなにもすごい。

いつも、そんなことには気づかないふりをして、涼しい顔で日常を生きているけれど、たまにはこの世界の不思議について、どっぷり浸かって感動してみるのも悪くない。世界の果てまで絶景を見に行かなくても、自分の目で見ている日常の風景や、肌で感じている空気を1つ1つちゃんと味わえば、一瞬で非現実的な世界にトリップできるのだ。

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