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書いて無駄なものなんて、何一つないんだ。

コンテストの結果発表というものに、未だに慣れない。緊張と期待と不安。その狭間でぐらぐらと心が揺れる。参加するからには選ばれたい。もっと言えば、その先で書く仕事に繋げられたらいい。そういう思いがあるから、いつだって本気で書いている。

書くことを仕事にしたい理由はわりと単純で、その方が多くの人に伝えたい想いを伝えることができるからだ。多くの人に伝えたいというよりは、多くの人に伝えられた方が、必要としている人に届く確率が上がると言った方が正しい。私にとってコンテストとはその足がかりであり、チャンスを掴むための大きな挑戦の一つだ。

昨日、岸田奈美さんによるキナリ杯コンテストの結果発表があった。知っている方々がたくさん受賞されていて、終始お祭りのような雰囲気だった。素敵な文章が軒並み並ぶ。すべての受賞作品を読めているわけではないけれど、読ませていただいた作品はどれも深く心に残った。

私の作品は、選ばれなかった。


今まで、この手の話をnoteに書くことは避けていた。私が正直な気持ちを書くことで、受賞された方々が気を使ってしまったらどうしよう。デリケートな話題なだけに、書き方によっては誰かしらを傷つけてしまうかもしれない。そう思うと、書けなかった。私が書いたものが原因で受賞者が思いっきり喜べないなんて、絶対に嫌だった。
でも、何だかふと、今なら書ける気がした。それは多分、私のなかで伝えたい想いが湧いてきたからなのだと思う。


私は感情を深堀りしたエッセイを度々書いているけれど、基本的に物凄くブレーキを踏みながら書いている。理由の一つとして、取り扱う題材が重い、というのがある。虐待、性被害、DV。どれも原体験として書くには、なかなかに体力がいる。精神的体力だけではない。身体も相当に消耗する。ということは、読み手も同じくらい体力を持っていかれるだろうと容易に想像がつく。私が感情のままに書き殴った文章は、とてもじゃないが表には出せない。それほどに強い感情が、私のなかにはある。
抑えて書く癖がついているためか、わりと柔らかい人間に思われがちだ。そう思ってもらえるのは、素直に嬉しい。そういう人間になりたいと思うし、そういう自分で在りたいといつも願っている。でもそれは理想としている姿であって、本来の私がそうなわけではない。

感情を素直に書くということ。それを表に出すということ。そこに、怖れがある。でも、出し方や伝え方に配慮さえすれば、それらは覆い隠す必要のあるものばかりではないのだと、ようやく思えるようになった。


ここで、コンテストの話に戻る。
ごめん。やっぱり選ばれないのって、めちゃくちゃ悔しい!!

この一言が、ずっと言えなかった。とんだ負けず嫌いだ。

誤解しないでほしいのだけど、受賞された方々に対して「おめでとう」と思う気持ちは本当だ。コンテストを開催してくださる方々への感謝の気持ちも、もちろん嘘じゃない。自分が選ばれようが選ばれまいが、そこは何ら変わらない。心から「おめでとう」と思うし、「ありがとう」と思う。そのうえで、やっぱり悔しいのだ。


この1年、様々なコンテストに参加してきた。そして、一度も受賞できなかった。だから、cakesコンテストの中間発表に残れたときは本当に嬉しかった。大袈裟ではなく、泣いた。ただ、こちらもあくまで中間発表だ。結果を出せたわけではない。

落選するたびに落ち込んだ。自分の力量のなさを見せつけられるたびに、心が折れそうになることが何度もあった。でも、どうしても書くのをやめようとは思えなかった。だから、考えた。必死に考えて、悩んで、向き合った。自身の足りない部分に向き合うのは、苦しい作業だった。それでも、そこから逃げているうちは前には進めないような気がした。

自分に足りないものを探そうと決めた。そのために、受賞作品や書籍になっている小説を読み込んだ。すると、私の文章は情景描写が乏しいということ、文末や比喩の表現の幅が狭いということの二点に気付いた。その他にも気付いたことは多々あったが、まずはその二つをどうにかしようと思った。

様々なことを試した。邦画を観ながら登場人物の心情や状況を文章で書き起したり。大好きな小説の写経をしたのち、自分だったらどう表現するかをじっくり考えたり。外を散歩しながら景色を眺め、その風景をデッサンする画家のような気持ちで、スマホに情景描写を綴ってみたり。あれこれ試行錯誤しながら書き続けた結果、文章を書く力はたしかに少し上がったように思う。プロの方々から見ればもちろん、まだまだだろう。それでも、自分の過去のnoteを読み返してみるとその違いが分かる。

書き続けてみて思う。この探求には、終わりがない。コンテストに向けたものはもちろんのこと、日々綴るエッセイや小説も、”まぁ、こんなもんでいいかな”というスタンスで公開したことは一度もない。クオリティを決めるのは書き手ではなく読者だと思っているので、私の文章が今現在どの程度のものなのか、自分ではよく分からない。ただ、書けば書くほど欲が出てくる。足りない部分が見えてくる。考えて、悩んで、書いて。ひたすらその繰り返しだ。その工程がとても苦しいときもある。それでも、結局は好きなのだ。だから、「やめよう」とは思わない。


元々は「書きたい」から始まり、「伝えたい」が平行するカタチで付いてきた。しかし、文章そのものを磨きたいと思い立った原動力は、間違いなく「悔しい」だった。選ばれなかった悔しさ。自分の実力のなさを知った悔しさ。チャンスを掴めなかった悔しさ。それはとても苦い経験ではあるけれど、決して無駄にはならなかった。今書いている文章だってそうだ。コンテストに落選した。何度書いてもダメだった。その経験があったから、私は今日この文章を書いている。

思いっきり悔しがっていい。泣いたっていい。私自身、何なら鼻水を流しながら泣いたことだってある。そういう自分を、「弱い」なんて思わない。それだけ真剣に向き合った。それだけ本気で書いたということだ。そんな自分の姿勢と文章を、大切にしたい。大切にしてほしい。悔し涙の味を知っている人は、とても素敵な文章を書く。これは、自信を持って言い切れる。


選ばれなかった作品を嫌いになってほしくないな、と思う。私自身、自分の足りないところを探そうと躍起になり過ぎて、自分の文章そのものが嫌いになりかけたことがある。そうなると、書くことそのものが苦しくなってしまう。
伝えたい想いを込めて、一生懸命書いた作品。せめて自分くらい、その作品を好きでいたいと今は思う。自分にとっての大切なエピソード。忘れたくないもの。削り取るようにして書いたもの。それらはすべて、あなたの生きてきた軌跡だ。書いて無駄なものなんて、何一つないんだ。


文章の奥深さに、日々驚く。知れば知るほど新たな発見があり、底知れぬ闇と向き合っているような気持ちになることもある。それでも私は、これからも書き続けていくだろう。書きたいから。伝えたいから。


以前書いた子育てエッセイのなかで、長男がこんなことを言っていたのをふと思い出した。

「試合中は対戦相手だけど、みんな同じ仲間だから」

やっぱり、書いてきて無駄なことなんて何もない。書いていたから、こうして鮮やかに思い出せる。読み返すことができる。


「悔しい」と「おめでとう」は、両立できる。子どもたちが試合のあと、互いに敬意を込めて礼をするみたいに。そうして磨き合っていける仲間たちと出会えたことが、悩みながらも書き続けてきた私の、何よりの財産なのかもしれない。

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