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【効き目の長い絆創膏】

もう「此処ではエッセイを書かない」と、昨年の終わりに決めた。それなのに、どうしても書きたくなって、心の赴くままにこの文章を書いている。

此処で書いていなかっただけで、文章自体は毎日書いていた。ライターという職業柄、それはある意味当然といえよう。しかし、仕事以外の文章も、ひっそりと書いていた。脳内で常に手招きしてくる「書きたい欲」は、私を自由にもするし、不自由にもする。ただ、誰にも見られない場所で動かし続ける筆は、どこまでも自由だった。

今年に入り、書く時間以上に、読む時間が増えている。「ダ・ヴィンチWeb」で書評を書かせていただけることになったのも要因のひとつだが、何より、私自身が「読める状態に戻れた」ことが大きい。

昨年のある時期、私は本が読めなくなった。とある出来事を機に、ストレス過多が長く続き、重いうつ状態になったのが原因だった。
読みたい、でも、読めない。いくら本を開いても、文字が滑ってまったく頭に入ってこない。読みたい欲求はあるのに、それが叶わないジレンマは相当なものだった。

もともと、文章を貪るように読む時間がなければ、うまく息ができない質である。このまま読めなくなったらどうしよう。読めなければ、おそらく書く意欲も枯渇する。そうなれば、今の仕事は続けられない。

廃業届を出す。

その選択肢が、幾度となく脳裏をよぎった。2年前、離婚とほぼ同時に出した開業届。必死に食らいついてきたけれど、ここまでか……。
悔しさと諦めが、交互に入り交じる。そういう夜は大抵よく眠れなくて、いつもなら本を開くのに、それさえもできなくて、毛布の端を掴んで声を殺して泣いた。隣から聞こえてくる、パートナーの健やかな寝息だけが支えだった。

個人事業主は、世間で言われているような「自由な」職業ではない。受けた仕事をこなすだけではなく、仕事を増やすための営業活動、確定申告などの事務作業も含めて、すべてが己の肩にのしかかってくる。疾病手当も、有給もない。ボーナスもなければ、厚生年金の加入もできない。

持続力と瞬発力、企画力と実行力、熱意と冷静さ、それらすべてが必要で、尚且つスケジュール管理能力も求められる。それが個人事業主なのだと、この2年で思い知った。自分に足りないものを数え、できなかったことを数え、諦めた未来を憂いた。

そんな最中、共に暮らすパートナーは、ただの一度も明るさを失わなかった。もちろん、喧嘩になった日もある。互いに泣いたり怒ったりして、別々に寝た夜もある。それでも、彼はいつだってちゃんと気持ちを立て直し、「これから先のことを考えよう」と言ってくれた。「あのとき、ああだったら」「あんなことさえなければ」――そうやって過去に囚われる私の腕を掴み、「そっちじゃない」と、根気強く現実(いま)に引き戻してくれた。

ちゃんと食べて、ちゃんと寝る。そういう当たり前のことを私ができるようになるまで、彼は待っていてくれた。”待つ”というのは、言うほど容易くない。呆れるほどの忍耐力と、幼馴染であるがゆえの理解度の深さ、彼特有の大らかなやさしさ。それがなければ、私たちの関係はとっくに破綻していただろう。

彼は、毎日少しずつ水をくれた。乾いた地面に一気に水を与えても、吸収できず表面だけを流れていく。彼は、それを知っている人だった。
焦らず、ゆっくりと与えられた水は、心身を徐々に満たした。揺り戻しがくるたび、せっかくもらった水をこぼしては落ち込んだ。それでも、彼は言った。

「ゆっくりでいい。焦るな」

幼い頃、母から毎日のように「早くしなさい!」と言われていた私は、「ゆっくりでいい」と言われることに慣れていなかった。それでも、彼と共に暮らし続けて9ヶ月、ようやくその言葉が私のなかに染み込んできたように思う。

ゆっくりでいい。焦らなくていい。できないことばかり数えなくていい。
できていることも、ちゃんとある。やりたいことも、ちゃんとある。食べたいものも、観たい映画も、読みたい本もある。今すぐ全部はできなくても、やりたいことが、私にはある。そう思えるようになった頃、本を開いた。途端、抗いようのない力で引き込まれた。

渇望していた。こんなにも、私は言葉に飢えていた。文章に飢えていた。読むことに、書くことに、生きることに、飢えていた。
足りない。全然足りない。もっと、もっと、もっと。
そこからは、留まるところを知らなかった。毎日、何かを読み、何かを書いていた。誰かの文章に触れながら思考を深め、己の感情に対峙しながら内面を整え、言葉通り、「本を食べて」日々を過ごした。

仕事ができるようになり、ご飯を吐く回数が減り、眠れない夜が減った。自己嫌悪に苛まれる時間より、未来に目を向ける時間が増えた。失ったものは、返らない。それでも、愛する人が隣にいて、かけがえのない息子たちが生きているのだから、私はやっぱり生きなければと思った。生きたいと、思った。

読み終えた本たちには、色とりどりの付箋がびっしりと貼られている。心に留めておきたい言葉が、私のなかで息づいている。やがて血肉になるであろうそれらの言葉たちを、忘れないよう書き留める。心にも、紙にも、強い筆圧で、何度も。そのたびに、思う。

人は人を、言葉で救える。

「文章じゃ人は救えない」と言う人もいる。でも、そんなことない。そんなことないよ。だって私は、昨日読んだ本にも、一昨日読んだ本にも、10年前読んだ本にも、間違いなく救われたんだ。

私の言葉で、人を救えるかどうかなんて知らない。でも、言葉の力を諦めたくない。同じ信念を持つ人が、私の周りにはたくさんいる。どれだけ言葉で傷つけられても、どれだけ尊厳を踏みにじられても、己の手綱を手放さず、奥歯を噛みしめて言葉を選び、紡ぎ続ける人たちがいる。

人に「死ね」と言ってしまうのも人間で、「大切だよ」と言えるのも人間だ。目に見えない傷に絆創膏は貼れないし、すぐに効く薬もない。でも、言葉はときに、絆創膏の代わりになる。即効性はないけれど、そのぶん長く留まり、じわじわと効いてくる。瘡蓋ができる頃には、きっと立ち上がれる。

もう無理だと思った回数より、立ち上がった回数のほうが多い。生きているのが、その証だ。

パートナーが、友人たちが、息子たちが、誰とも知らぬ人が書いた数多の本が、私に言葉をくれた。絆創膏をくれた。瘡蓋は、まだ薄い。剥がれない保証もない。でも、仮に剥がれても、きっとすぐにまた瘡蓋はできる。何度だって再生する。人という生き物は、案外しぶとい。

完全には塞がらない傷もある。癒えない痛みもある。それでも、私には言葉がある。何度も何度も噛みしめて、血肉にしてきた言葉がある。それらを握りしめて、明日につながる文章を書こうと思う。昨日を振り返り、10ヶ月前を振り返り、10年前を振り返った上で、私はこれから、「未来」に向けて言葉を紡ぐ。そうしようと決めた今日の気持ちを、書き残しておく。未来の自分に向けた、約束の意味も込めて。




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