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「めんどくさい」という感情の考察について

最初に書いておく。賢そうなタイトルになってしまったが、別に賢いことを書いているわけではない。

今日は自分がうまく対処しきれない「めんどくさい」という感情について少し考えてみようと思う。

「めんどくさい」  

その言葉を生み出した人は天才だと思う。きっとこの世の中にこの感情を抱いたことがない人っていないのではないかと私は思っている。

私という人間から「めんどくさい」という感情を引くときっと何もなくなってしまうのではないかくらいに、私とこの感情は切っても切っても切り離せない関係にある。

「めんどくさい」

仕事で連勤が続いて、やっと休みになって、目覚ましをかけずに眠って、起きて、でもなんだか何もする気になれなくて、ベッドに入ったまま再び眠って、また目が覚めて、さすがに起きあがろうと思って、でも起き上がれなくて、スマホでするすると流れていくショート動画をただ意味もなくスクロールしてみて、それにも飽きてきて、気づいたらとうにお昼すぎになっていて、今度こそはと起き上がって、部屋をぐるっと一周してみて、たまりにたまった洗濯物の山、明日休みだからと夜な夜な一人パーティをした後の洗い物やお酒の缶が散らばっている残骸、どことなしかうっすらとたまっているほこりと髪の毛のイルミネーション、そんなものをみてまた、何もする気が起きなくなってベッドに入って思う。


「めんどくさい」と。

そういえば、明日の仕事のスケジュールってどうなってたっけ。そんなことを休みの日なのに思い出してしまって気になって、パソコン開いて、明日は自分の苦手なお客様の対応があって、それを思い出して憂鬱になって、そういえば、上司から来ていた連絡に返信できていなかったとメッセージアプリを開いて、返信しようと思ったけど思いのほか、会社に行かないとわからない質問を投げられていて、あー返信もできない、だるいと思っていたら、ポンとまた通知がなって、今度は急に明日休みの連絡が別の同僚からきて、どうやってそこの穴を埋めようか考えて、パソコンでカタカタとキーボードを打って、気づいたら夜になっていて、仕事も何も進んでいないのに、私の部屋の中も何も進んでいないのに、休みはどんどんと終わりに近づいていてふと私は思う。


「めんどくさい」と。


たいして何もしてないのだけれど
こんなにもぐるぐると目まぐるしく自分の中に浮かんでくるあれこれを
たった一言で言い表せてしまうこの言葉の威力はすごいと改めて思う。

おそらく、この言葉を思い浮かべない日、唱えない日はないのではないかというくらいの長い付き合いだけれど、私はいまだにこの感情を消化するということがうまくできない。

「なんで消化できないんだろう。」そんなことを考えてみる。

いろいろぐるぐると考えてみたけど、私なりの結論はこう。
「終わりがないから。」である。

わかりやすいように他の感情と比較してみる。
どちらかというと私はこの「めんどくさい」という感情をネガティブなものとして捉えているので、真逆の「楽しい」「うれしい」そんなポジティブな感情と比較してみる。

例えば、なかなか会えなかった友人と久しぶりに会えて「楽しい」「うれしい」という感情が自分の中で芽生えたとき、私は必ずこう思う。この時間がずっと続けばいいのに、終わらなければいいのに。と。

「楽しい」「うれしい」という感情にずっと満たされて生きていくことができるのならそんなに充実した人生があるだろうか。きっとそうやって生きていくことができる人もいるのだろうけれど、私の場合はそうではない。その感情には必ず「終わり」があって、どんなに頭によい想い出として刻んでも、その「楽しい」「うれしい」時間が終わってしまえば、それを頭に再び思い浮かべても同じ温度感でその感情に浸れることはない。
終わるのは惜しい、けれどだからこそ、その時間を、その感情をとことん味わって自分に吸収しよう。そうやって私はこの「楽しい」「うれしい」という感情を消化する。


では逆にネガティブな感情と比較してみる。
「悲しい」「苦しい」といった感情の類だ。
一見、「めんどくさい」という感情に似通っているようにも見えるが私にとっては大きく違う。

例えば、大好きな人に告白したのだけれど振られてしまって「悲しい」「苦しい」という感情が自分の中に芽生えたとする。
「悲しいよ、苦しいよ。」そういって、私は涙を流す。
この「涙を流す」という行為の力はすごい。この涙によって、私はその感情を消化することができる。 

それに、涙が流れなかったとしてもこの「悲しい」「苦しい」という自分をむしばんでいる感情は、別の形でも消化できる。
どうやって消化するのかというと「現実逃避」という行為によってである。
この感情がずっと自分の中にいるのは、さらに自分を悲しみに、苦しみに陥れてしまうので、切り替えて一旦、その感情を離れるために、たとえば、おいしいものを食べてみたり、ずっと買いたかったけど買えていなかった洋服を買いに行ったりしてみる。
そうすると、気づいたらその感情は、完全にとまでは言わないけれど薄れてきて、また頑張ろうって、そうやって消化することができる。

ではまたここで「めんどくさい」という感情を登場させる。

残念ながら、私が普段の生活の中で「めんどくさい」という感情を抱いたとして、「めんどくさい~~~」と涙を流すことは不可能に近い。
もちろん、とてもピュアな心を持った人であればそれはできるのかもしれないけれど、きっと昔はピュアであっただろう私の心もいい意味で?廃れて、成熟して大人になっている。
どんなに頑張って、目薬を差して涙を流そうとしても、それは無理な話なので、私は涙で、この感情を消化することはできない。

それに「現実逃避」。これによって消化しようとトライしたことも何度もあるけれど、無理だった。というか、さらに事態は悪化して、この「めんどくさい」という感情にレベルがあるとするなら、もともとレベル10くらいだっためんどくささが、レベル100くらいになってとんでもなくめんどくさくなるという状況に変化してしまうのだった。
よくよく考えてみるとあたり前である。
例えば、上記に書いたような状況の中で、「あ~めんどくさいから現実逃避。」そういって、結局、洗濯物はそのままで、洗い物もそのままで、気になった明日の仕事のタスクについてもそのままで、おいしいものを食べて、素敵なお洋服を買いに行ったとする。
そこまではいいのだけれど、結局帰宅したときにさらに絶望するのだ。
うわ、めんどくささが、レベル100になっていると。

「なんて日だ」ならぬ「なんて人生だ」である。 

このとにかくやっかいな「めんどくさい」という感情。
気づいたら「めんどくさい」という塵が積もりに積もって、エベレスト並みの山となっている。

頑張って、その塵を1つ1つ掃除して、きれいにしていったとしてもまた別のところで、新たなその塵が生まれて、山を作りはじめている。 

ここまでくると消化どころか
この「めんどくさい」という感情自体が、自分の人生そのものなのではないかと思えてくる。

そう、終わりがないのだ。

だから、もう仕方ないので、私はすでに「めんどくさい」という感情を消化することをあきらめた。すごくしんどいけれど向き合うことにして生きるようになってきた。 

終わりがないのに向き合うことはとても大変だ。
けれど、うまくはいかないことも多いけれど、1つ1つ向き合っていく中で見えてきた新しい気づきもある。

「めんどくさい」


そう思って、放置していた洗濯物の山を一気に洗濯機にかけて回して、その間に、パーティの残骸を掃除してみる。そしたら、見違えるほどきれいな部屋が誕生して、そこで、おいしくコーヒーを飲みながら読書をする時間は実に優雅だった。

「めんどくさい」


そう思って、嫌だったけど頑張って、休みの日返上で、落ち度がないように入念に準備した提案が苦手なお客様に刺さって、よい仕事ができて、充実感に浸れたときもあった。

きっと、終わりがないこの「めんどくさい」という感情の中で、小さな喜びを見つけていくことが、この感情をうまく「消化する」ということなのかもしれない。 

さあ、今日も私の目の前には「めんどくさい」が山積みである。
めんどくさい家事、めんどくさい仕事、めんどくさい人間関係。
どれから手をつけようかと考えながら、「腹は減っては戦はできぬ。」ということで、よい仮眠とよい食事をとってから、ぼちぼちと、1つ1つとりかかっていこうと思う。











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